武田の騎馬軍団の幻想と勝頼の立場



こんどう史科医院の歴史ブログ
この写真は木曽駒だが、実際武田方が使っていた馬もこのような駄馬であったと言われている。


武田は騎馬軍団というのは実は幻想である。確かに他の軍に比べると馬の頭数が多く一見騎馬部隊があったのかと思うところはあるのだが、1)その当時の馬は今のポニーと同じぐらいの大きさしかなく、戦うためというよりは輸送手段と考えられていた。2)合戦時に一段上から眺められるので指揮士官が騎馬に乗って指揮することはあったようであるが、実際合戦となると下馬して戦ったようである。そういえば昔NHKの「歴史への招待」で、司会の鈴木健二アナウンサーの名調子で「義経の騎馬軍団」という話があり面白い実験をしていたのを思い出した。実験には、体高130センチ、体重350キロの鎌倉時代の平均的な大きさの馬が選ばれ、それに大鎧や鞍などの重さにあたる45キロの砂袋をくくりつけたうえで、体50キロの馬術部員が騎乗して、そのスピードと走行距離を調査した。馬は合計95キロを背負うことになり、この馬に騎乗した馬術部員の話では、歩調が重く鈍くなり、駆足をしていたのに、すぐに速足(はやあし)に落ちてしまったそうである。普通、駆足は分速で約300メートルの速さをさしますが、実施した馬は分速150メートルにしか達せず、乗馬して10分後には大きく首を振り、やっと走っているという格好で、実験は終了した。勿論、馬の個体差などの問題もあるが、いずれにしても長時間、馬で戦場を駆け巡るというのは幻想にすぎないことがこの実験からもわかる。付け加えておくと、鎧兜などの過酷な重量が馬のスピードを殺してしまったともいえるであろう。



こんどう史科医院の歴史ブログ
長篠合戦屏風(徳川美術館蔵)

真ん中に「大」の旗を掲げる勝頼の絵がある。彼は嫡子ではないため風林火山の旗を持てなかった。



また指揮官武田勝頼のその時の立場を考えてみよう。武田勝頼は風林火山の旗を持てなかった。これは勝頼自身が正当なお屋形ではなく、陣代として武田軍を率いていた。当然老将、諸将からも多少の不満は出たであろうが、連戦連勝の実績によりその不満を抑え込んでいた。よって長篠城を落城させるか、一度織田方と対戦し何かしらの勝利を得てからでないと退却できなかったと思われる。そこでとった行動は自分から先頭に立ち、信長・徳川連合軍の恐怖をあおり兵の士気を落とすといった作戦である。まさかそれが裏目にでることは知らないままに、、、、、しかし、もうひとつの仮説も頭によぎるのである。武田の強さは負けてからの強さだということである。過去信玄は上田原の戦いで板垣、甘利といった老臣を失う負け戦を喫したことがる。これにより山県や馬場、高坂といった重臣が出世している。つまり信玄お抱えの老臣たちにとって勝頼は若すぎ、もしかしたらもののふとしての死に場所を考えていたのかもしれない。そうして若く強い武田を再生させていこうと考えていたとしたら不思議とつじつまが合う気がした。




こんどう史科医院の歴史ブログ

こんどう史科医院の歴史ブログ



鳥居強右衛門磔刑の碑(上)とその時の両軍の動き(下)


この時までは野戦の様相を呈していた。その頃予想される戦場は三河東郷駅と大海駅の中間である清井田あたりと予想されていた。しかし設楽原で織田・徳川の進軍は停止する。まるで長篠を救う気がないように、、、もっとも若き勝頼はこの進軍停止を武田に臆した行動と思ったのかもしれない。そこに勝機をかけるしか選択肢が残っていなかったとしたら勝頼のただならぬ思いというものも感じざるを得ないのである。