長篠の惨劇 甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか(4)


信長とイエズス会

長篠の合戦より6年前、1569年に二条城にて信長はルイス・フロイスと出会っている。このフロイスは軍事への関心が強く彼の残した書簡や覚書には戦闘や戦術に触れた部分がいくらでもある。既存の仏教 界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内 での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ などと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その代り信長は当時の西洋の戦術を学んだに違いない。そこで教えられたのがこのコルドバの野戦築城と火力を用いた戦術であると思われる。

 

後詰決戦としての長篠

武田に包囲された長篠に後詰として救援が来る


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後詰決戦を望む武田は救援本体と交戦する。同時に別動隊が

敵の退路を断つ。このとき武田は背水の陣となる。


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武田方の攻撃が限界に達したところで反撃し掃討戦となる。


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斉藤道三、上杉謙信、武田信玄、織田信長、毛利元就など戦国大名は、配下の小領主や同盟者の城が攻められると、救援に出向く。この救援活動を後詰と言う。侵攻して城を包囲している攻者の後方から戦いを仕掛けるからである。包囲している侵攻軍は、後詰軍が来るとただちに向かえ打ち、駆逐しなければ攻城目的が果たせない。このために攻城軍と後詰軍との間で戦闘が勃発する。この戦いを後詰決戦と呼ぶ。信玄の息子の勝頼は、織田信長・徳川家康を合戦で負かしたかった。このため、徳川の支城である長篠城を包囲して、織田・徳川連合軍が、後詰に来ることを期待し、その後詰軍と合戦を行いたかったのである。これは勝頼の無き父、信玄の悲願でもあった。連合軍は、勝頼の期待どおりの後詰に動いた。そして決戦にいたった。


この展開を一言で言うと「長篠城をコアとした後詰決戦」なのである。この勝頼の絶対的な自信はどこから来たのであろう。おそらくこの当時武田は野戦においては絶対的な自信を持っており、野戦であれば信長・徳川連合軍に勝てると思っていたのではないだろうか。実際戦場での陣形移動など、高度なテクニックを持つ武田軍に対し、織田方は、兵力は多いが、寄せ集めであり、テクニック不足だし、指揮系統も臨時に作っている。例えば信長は、この戦場に動員しなかった武将の配下の、鉄砲兵のみを呼び出して前線に配置していることが知られている。この織田軍には、戦場での高度な動きが伴う駆け引きは無理だ。ならば動かないのがいい。敵に、防禦線の外では自由に動いてもらい、防禦線から手前には一切入れない。敵の攻撃に戦線が突破されそうになったら、予備の兵を振り向け、押し返す。予備の兵力は有り余っているのだから。そうして敵が、それ以上の前進ができない時点に至ったら、織田・徳川連合軍は、予備の兵をあわせ、全軍が一丸となって反撃し、武田軍を殲滅する。武田は武田で兵士の士気の高さから野戦であれば絶対に勝てる自信はあったのでまさか織田が野戦築城、城のような構造物を作っているとは思っていなかっただろうし、まさかそれが南蛮渡来の戦術だとは夢にも思っていなかったであろう。


「長篠城をコアとした後詰決戦」から「設楽原の野戦築城への攻城戦」に切り替えさせた信長の戦術の勝利がこの長篠の結末のように思われる。


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現在の設楽原、上が織田・徳川の陣地、下は両軍が対峙した連吾川である。ここにきて初めてわかるのであるが、両軍の距離はあまりに近い感じがする。