第4章 真の川中島決戦とは




こんどう史科クリニック

高野山にある武田信玄の彫像



 武田信玄は名門甲斐源氏の第18代当主であり、家柄は問題はない。しかし立場上蝦夷を征伐する武士の家柄でありながら、経済を重視し金山衆(蝦夷の末裔)も組織の中に組み入れていったという背景はある。また諏訪氏(スサノオ一族)の末裔を側室にし、その子武田勝頼は次期当主になっていく。一方上杉謙信(もとは長尾景虎)の上杉家は足利 宗家 外戚 として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。しかも上杉家の本姓 が藤原氏からわかるように藤原の血筋に憧れをもち、天皇の守護たる毘沙門天を崇拝してきた。つまり川中島決戦とは天皇・藤原系の上杉と蝦夷・物部系の武田のシンボリックな戦いと解釈することもできるのではないか?結果として「キツツキ戦法」を見抜かれた勘助は作戦失敗の責任をとり上杉方に突入し憤死する。 それはあたかも藤原対蘇我、物部のような古の時代からの出来事や民話を象徴しており、歌舞伎や浄瑠璃では、織田信長、豊臣秀吉より前の最も近い一大事件が『川中島合戦』に重ね合わせていったと考える。また当時の情勢は徳川幕府が甲州流軍学を採用していたことから『甲陽軍鑑』が広く読まれていたこと、加えて当時豊かになった庶民の間で旅行ブームであったこと(広重の東海道シリーズが大ヒットした所以)、つまり善光寺参りも人気スポットの一つで、川中島合戦の浮世絵が信州のお土産として恰好であった、などが考えられる。さらに幕末の維新の臭いに庶民が反応したこと、つまり、当時(幕末)の世相、事件の報道のために、なぞらえる対象として『川中島合戦』が打ってつけの題材だったのではとも考えられる(武田を徳川になぞらえた)。


 今回山本勘助とアラハバキ神のつながりを考察していったのだが、意外と東三河にはこういった古代の史跡や伝承が残されていることに気づいた。そういった史跡を巡る楽しみも増えていったがその記述は後の楽しみとしておこうと思う。