2 忘れられた民族





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一本ダタラ (水木しげる作)




 さて、「一本ダタラ」という妖怪を皆様は知っているだろうか?一本足の踏鞴(たたら)という意味であろうと推測されている。踏鞴とは和製製練法の一つで、足で踏んで空気を吹き送る大きな鞴(ふいご)のことである。鉱山近くに一本ダタラが出没することから、タタラ説を有力とする学者が多い。タタラ師は鉄製練の職業病で、片目はつぶれ、片足が不自由になることが多いという。そのタタラ師が信仰していた鍛治神が零落して妖怪になったものが、一本ダタラであるというのである。また、『古事記』にも登場する天之御影命(アメノミカゲノミコト)、またの名を天目一箇神(あまのめひとつのかみ)が零落して一本ダタラになったとも考えられている。天目一箇神はその名の通り一つ目であり、鍛冶を司る神であった。このことから、古代から鍛冶師は片目、片足のイメージで見られていたことが窺える。余談であるがギリシア神話
キュクロプス
を始めとして、鍛冶の神は世界共通して一つ目(片目)の神となっていることが多い。






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エラスムス・フランキスキ著書の挿絵に見られるキュプロクス



 このことを踏まえて山本勘助の伝承と姿を重ね合わせるとまさにこの天目一箇神に相当するのは想像にたやすい。そんな鍛冶の神様がなぜ歴史の闇に封印されてしまったのであろうか?それは太古の大和朝廷の成立と製鉄が関与しているように思われる。そこでまず製鉄の歴史について考えてみよう。




人造鉄の存在が、従来考えられていたより古い時代に遡ることは確かである。メソポタミアでは前五千年ころのサーマッラー出土の鉄器があり、人造鉄とみなされている。これに対して前4600頃―前4100頃のイランのテペ・シアルク遺跡第2期の小さな鉄球研磨器は隕鉄で、現存の資料だけでは人造鉄と隕鉄のどちらの利用が先行したかを判断を下すことは難しいという。前三千年紀に入ると、メソポタミア、アナトリア、エジプトに出土地の分布が広がる。ウルのジッグラト付近には溶鉱遺跡が発見されている。この時期は人造鉄と隕鉄が相半ばしている。

20~前19世紀のアッシリアとアナトリア東部の交易を伝える「キュルテペ文書」に数種の鉄の名称がみられるが、そのうちの一つであるアムートゥムは金の八倍以上の価値を有していた。まさに「金の王哉」である。前三千年紀、アラジャホユックのハッティ人の王墓から出土した鉄剣は、人造鉄による大型の器具として最古のものである。前二千年紀にアナトリアに入ってきたヒッタイト人は、「鉄」を意味するハッティ語の「ハパルキ」(後述に出てくるアラハバキとも関係がある)とともに、土着の優れた製鉄技術を受け継いだ。ヒッタイトには他国が羨む高度の製鉄技術と厳重な鉄の国家統制、技術の国外流出に対する強い警戒心があったとされる。アッシリアは鉄を国内の建設事業に使用するとともに、軍隊の鉄器武装化に努めて最初の世界帝国を実現させた。対照的にエジプトの鉄器使用は先史時代までさかのぼるにもかかわらず、その後十分な発達をみることがなかった。

古代では東洋、ことに中国とインドで、早くから製鉄技術が高い水準に達し、西洋をはるかに凌駕していたと言われている。中国では、すでに紀元前から鋳鉄が製造されており、鋳鉄を精錬して脱炭し錬鉄に変える二段階法(間接法)が発展した。また炭素の多い鋳鉄に炭素の少ない錬鉄を溶け合わせて鋼にする技術も生まれた。一方ヨーロッパで二段階法が始まったのは十五、六世紀で、高炉法の出現により初めて実現したことを考えれば、こうした中国、インドの製鉄技術は驚くべき先進性をもっていることが分かる。

日本でも、自然風による露天蹈鞴という方法で弥生中期から古墳時代中期まで製鉄が行われていたと考えられているが、こういう原始的な方法では遺構は残らないので証明が難しい。

 神話と製鉄の関係を見ると、『日本書紀』の天石窟(あまのいわや)の段の一書にアマノハブキという手鞴(てふいご)が出てくる。真弓常忠氏はこの天石窟の話を、銅鐸による祭祀が行われなくなり、鏡による招祷儀礼の行われた時代の反映であると考え、三世紀のことと推定している。

 これを大和朝廷成立の過程と照らし合わせてみると、初期の古代産鉄族の移動は三方向からが考えられる。

 中央構造線をさかのぼり吉野に至った産鉄族(土蜘蛛族、国栖族、長脛彦の祖先など)

 対馬海流に乗って出雲に至った産鉄族(オロチ族:ヤマタノオロチ)

 黒潮に乗って渥美半島に至った産鉄族(アタ族、安曇族、海人族 尾張氏氏祖先)

 この後朝鮮から第1陣産鉄族が流入し、出雲はスサノオ一族に占領され、大和はニギハヤヒ一族(後の物部氏)が入ってきた。この時先住産鉄族は中央構造線等を移動し、諏訪、鹿島に移動したと思われる。その後天孫(皇族の始祖)の進出によりオオクニヌシの出雲譲りがあり、その後神武東征により大和に進出した。これが第2陣産鉄族流入移動である。これによりオオクニヌシの子タケミナカタに代表されるスサノオ一族は諏訪に入り、ニギハヤヒ系の一部、長脛彦一族は安曇族などをたより東方に移動したと考えられる。この後ヤマトタケルにより渡来系産鉄族第1陣と第2陣の再結集がはかられるものの、呼びかけに応じない一族がさらに北方に移動し、初期産鉄族や北方からの流入民と混血してしまい古代蝦夷(エミシ)を形成していったのではないかと考えられる。そう考えると甲斐の金山衆はまさにこの古代産鉄族と大和からのがれたニギハヤヒの末裔である可能性が高いと思われる。







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諏訪神社上社に伝わる鉄鐸、銅鐸よりも先に鉄鐸が作られた可能性もある。








 そんな彼らが歴史から封印されたのは次のような理由からであろう。
1)蝦夷(エミシ)として大和朝廷に反旗をひるがえした。それ以後平安時代 まで弾圧されていく。



2)大化の改新以後藤原氏が実権を持つようになり、物部や蘇我の勢力が復活することを恐れた。またそれ以前の歴史書を消し、現政権に都合のよい「日本書紀」と「古事記」(以下記紀と省略)が編纂された。

3)その藤原氏と天皇家に都合のよい宗教として神道が作りかえられて各地で天皇を祭る神社ができ始めた(国府と宮の設置)。このときその土地にあった古い神様は外に追いやられた(第3回登場のアラハバキ神社)。また神官たちも修験者となり山深くに移り住んでいった。







 こうして鉄を作る民族は、時の政権から迫害され山奥に隠れて住むようになり、時には里の女たちを略奪することもあったであろうし、そうした姿が「鬼」の伝承としておそれられたのではないかと思われる。