視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)/スーザン・バリー

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クオリアというのは茂木健一郎が考えだしたわけではなくて,意識を研究する上ではずっと重要なテーマであった.いまだに定義自体はよくわからないというか,「感じている主体」あるいは「感じていること」あるいは「感じ」そのものともいえる.針で刺されたときにできる傷ではなくて,痛いと感じること.あるいはリンゴを見たときに「赤い」と見えること,というのがクオリアと言えるか.

意識といってもいいかもしれないが,自信はない.

息子を見ていると日々クオリアが増えていくわけであるが,これは一体何だろうと思うわけである.少し前から彼は色を覚え始めた.あるいは色の名前を覚え始めた.「アカ」とか「キイロ」とか言っているが,初めはかなり適当で間違っていた.この段階で「色」という概念が先にありそうである.

ただ色というのは本来分けられない.虹が七色にみえるのは,人間が勝手に七色に分けているだけだ.ホントは連続的な周波数(波長)が可視光域で続いているのがその実態である.

小学校の時だったか,初めて色盲の検査を受けた.で,アカとミドリを言い分ける検査なんだが,しばらくたって,もちろん五年生とか六年生くらいになってからだが,「色が同じように見えている保証はどこにあるのだろう」ということに気づいた.というよりも,色がみな同じように見えていることは確かめようがないということに気づいた.

赤いリンゴを見たときに,みんながアカという.それは間違いない.しかし私にとってのアカの見え方が,あなたにとってのアオの見え方であったとしても,確かめようがない.赤いリンゴを見るときは,あなたも私もアカというし,それで完全に合意する.実際に同じように見えているかは,脳を取り替えるしかない.

網膜から出た視神経軸索は後頭葉に終わるが,一次視覚野の細胞を他人の脳にシナプティングごと移植することが可能だったら,どう見えるのだろうか.一次視覚野か,あるいはもっとその上の統合野が「赤」というクオリアを作っているのを明らかにできるのだろうか.そもそも分けられない周波数を無理やり分けているのは「視覚」ではなくて「言葉」ではないのか.

ま,どうでもいいか.