ベートーヴェンによって発見された,音楽における自意識.自己を語るという最も単純でわかりやすい方法を手に入れた西洋音楽は,爆発的な大衆性を手に入れ最もきらびやかな時代に突入する.シューマン・リスト・ショパン・ワーグナー,さらに下って民族的なドヴォルザーク・チャイコフスキー・ラフマニノフ,あるいはリヒャルト・シュトラウス・ラヴェルなど,誰でも知っているような有名作曲家が続々と輩出された時代である.

 ベートーヴェンによって統一された西洋音楽様式であるが,その後現在に至るまで「自意識」という概念以上のレベルで再度の統一を果たした音楽家は存在しない.基本的にはベートーヴェンの枠組みをどう洗練するかという方向性でこの後の音楽は発展していく.

 ロマン派の感性をもっとも忠実に引き継いだ現代音楽はロックンロールだと思われる.ビートルズ・ドアーズ・クイーン,すなわちジョン・レノン,ポール・マッカートニー,ジム・モリスン,フレディ・マーキュリーなどは,感性という点ではかなり近い位置にいたと思われる.しかしロックのテーゼとは残念なことに破壊と反抗であるからして,超新星のような輝きを発した後に自滅せざるを得なかった.もちろんこれには戦後の政治体制・高度に洗練された経済システム・冷戦・あるいは核兵器の狂気,というものが大きく影を落としている.時代の犠牲者という点では,ある意味シェーンベルクもそうなのかもしれない.



 音楽の始皇帝ベートーヴェンの後継者は誰なのか.子は成人するために父を殺さねばならないというオイディプスの呪いは,フロイトが引き出したものとされるが,ならば父ベートーヴェンを殺したのは誰なのか.リンゴ・スターはそのインタビューの中で「ベートーヴェンはどう思う?」と記者に問われ「好きだよ...特に彼の詩がね.」と答えたという.強烈な皮肉なのか,あるいは完全にシリアスな答えなのかはわからない(普通は前者にとらえるが).いずれにせよこれは反抗にすぎず,父殺しではない.

 シェーンベルグの業績は父殺しに当たるのか,ストラヴィンスキーが父をホルマリン漬けにしたのかは,やはり保留したい.

 だれも父殺しが出来なかったとして,それでもベートーヴェン(1770-1827)の後継者は誰なのか.とっさに3人の名前が浮かぶ.

 エクトル・ベルリオーズ(1803-1869)
 ロベルト・シューマン(1810-1856)
 ヨハネス・ブラームス(1833-1897)

 実はこの3人,生まれた順に並べたのであるが,もっとも先鋭的なロマンティストは一番早く生まれたベルリオーズであり,最も保守的なセンチメンタリストは一番最後に生まれたブラームスである.ベルリオーズは実はピアノがひけず,ギターで作曲したらしいと言うのはどうでもよい.とにかくこの人はナイーブな人で,詩を読んでは泣き,失恋しては自殺を考え,曲を捧げた女優と結婚したと思ったらあっという間に離婚し,まあ要するに思いこみの激しい人だったのだ.ある意味,星飛雄馬のごとく始末のおけない人間だったのかもしれない.

 ベルリオーズの文学への傾倒はかなり真剣であり,はじめて「交響曲の楽章にタイトルを付ける」ということをやってのけた.有名な幻想交響曲であるのだが,彼は自らの失恋を告白するという当時としては衝撃的なスタイルで交響曲を書いてしまったのだ.もちろん日本文壇の特殊ジャンルである「私小説」というゴミのような作品群と比べてはならない.彼はこの幻想交響曲のなかで,やがてリストやワーグナーなどが多用する「主題の循環」という手法を初めて用い,バーンスタインによって「音楽史上初のサイケデリックな試み」という評価をされている.

バーンスタイン(レナード), ベルリオーズ, フランス国立管弦楽団
ベルリオーズ:幻想交響曲
(まだ買わなくて良い.しかし上のものは安い)

 また劇的交響曲「ロミオとジュリエット」の中では,ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」その前奏曲につながる和声が用いられている.この辺については,最近何度も紹介したバーンスタインの音楽講義で詳細な検討がなされている.ベルリオーズ自身はロマン派の感性を最も先鋭的に後世へ伝えることに成功した.

 ロベルト・シューマンがベートーヴェンの後継者であるという提言についてはほとんどの人が反対するだろう.確かに彼はロマンチックな人であり,文学への造形も深かったようだが,残念ながら作曲家としての実力は他のロマン派の音楽家と比較しても少々劣ると言わざるを得ない.特に管弦楽法の拙さはもはや「定説」になっている感がある(もちろん「あの音はあの書き方でしか,出ない」ということも事実であり,それをもって擁護することはやぶさかではない).

 彼の役割については,後の稿で説明する.もったいぶるが,たいしたことではない.

 さて前置きだか本文だか分からない論説を経て,今回紹介するのはヨハネス・ブラームスである.この遅れてきた古典派とも言うべき音楽家は,しかしやはりロマン派の人なのである.これは「時代の性」と言わざるを得ないことである.ベートーヴェンという統一者の直後に,彼を超越した立ち位置にいることなど不可能なのだ.

 ブラームスを特徴づける感性とは,たとえば透徹した美学や自然への愛,あるいは完璧主義・徹底した自己批判,均衡と形式美の尊重,偉大なる過去の継承といったものがあげられる.しかしこれらの特徴は皆,極端なまでのナルシシズムからきている.自らが「バカにされる」ことを極端に嫌う,あるいは絶対に許さないという,人間としては極めてつきあいにくい人物である.

 しかし腕は確かだった.ピアノ演奏であれ作曲であれ,彼の技術はその自己愛を十分に満たしているといえよう.ロマン派の庵野という理由はそういった意味である.「新世紀エヴァンゲリオン」の一つの重要なテーマは「極端なナルシシズム」であるが,これがベルリオーズ・リスト・ワーグナーへと連なる誇大妄想の系譜へは至らない点がいかにもブラームス的だ.やはり基本は職人なのである.

 職人としては古典主義を破壊することなどあり得ない.ベートーヴェンを壊してはならない,しかしベートーヴェンを超えなくてはならない.彼はそのような類の難問を課し,交響曲第1番「ハ短調」を書いたのだ.この曲においては,ブラームスの感性というものはほとんどデリートされている.これはブラームスのナルシシズムを駆動力として,ベートーヴェンの手法を以て,ベートーヴェンを超えるがためにかかれたゆえに,作曲に21年もの歳月を要した.

 第1番とかかれているが,あとに続く第2番から第4番は本当はこれより前にかかれていたのではないかという疑問がある.私はこれに賛成する.ハ短調とはすなわちベートーヴェンの調性である.先に取り上げたピアノソナタ「悲愴」,あるいは交響曲第5番,ハ短調である.極めて暑苦しい調性であり,ブラームスのトーンではない.彼は本能よりも自己愛を優先させたのだ.

 私生活にあっても万事このようであったようだ.有名な話ではあるが,彼は直接の先輩であるシューマンの妻,クララ・シューマンを生涯愛していたのである(これを愛と呼ぶのかどうかは疑問であるが).ロベルト・シューマンが亡くなったのは1956年(46歳),ブラームス33歳・クララ37歳である.その後も実際かなり親しい関係になっている筈なのだ.いいじゃん,奪っちゃえよ,という状態なのであるが,それでも結ばれなかった.そして1896年クララ・シューマンは亡くなり,その後を追うように1897年ブラームスが亡くなっている.その間40年.


 馬鹿である.


 誤解を承知で言おう.彼のナルシシズムは年上の未亡人を娶ることなど許さなかったのだ.彼は他の縁談も断っている.彼のナルシシズムは,他に愛する人がいるのに別の人と結婚することなど(以下略)...イジイジと古典派の技法をこねくり回して同じ曲に21年もの歳月をかけたりすることといい,この辺が碇シンジなのだ.交響曲第1番の冒頭の連続ティンパニを聴くと,いつも私の脳裏に浮かぶのは「逃げちゃダメだ.逃げちゃダメだ.逃げちゃダメだ」というあの有名なシーンである.

 エヴァンゲリオンを見たことがない人にブラームスをたとえるならば,それは中田英寿である.



 バッハ・ベートーヴェンとならびドイツ・オーストリア音楽の「3大B」とも言われ,絶対音楽の巨匠とも言われるブラームス.しかし彼は強烈な自己愛と先達への羨望,自己批判の恐怖の間でずっとさいなまれていた人であった.そしてその強烈なエネルギーを自己に集中させながら,ついに爆発を見ることなく枯れていったのである.極めて純粋な自己愛であったため,その枯れかたも非常に美しいものであった.

 交響曲第1番はブラームスの創造性の爆発ではない.むしろストレスからの解放,大陸棚で起こる地震である.プレートの軋みから解放されたブラームスは,その歌心と鍛え上げた様式美をもって室内楽の傑作を次々と書いていく.まずあげたいのは,以前にも取り上げた3曲のヴァイオリンソナタである.


グリュミオー(アルテュール), ブラームス, シェベック(ジェルジ)
ブラームス:VN・ソナタ(全曲

 残念ながら在庫がない.ヴァイオリニストであればおそらく必ず録音するであろう曲であるから,気になる人のものではどれでもよいであろう.おそらく大丈夫と思われるのは以下の1枚.

パールマン(イツァーク), ブラームス, アシュケナージ(ウラディーミル)
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3番
 超絶に安定していることが予想される.ある意味ベストな組み合わせだ.ちょっと意外,ということであれば,

ムローヴァ(ヴィクトリア), ブラームス, アンデルシェフスキー(ピョートル)
ブラームス : ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調 作品78「雨の歌」
 アンデルジェフスキーのくどさとムローヴァのそっけなさがどういうミスマッチを引き起こしているか興味深い.

 そして怖いもの見たさという点では右に出るものはないであろう1枚がこれだ.

クレーメル(ギドン), ブラームス, アファナシエフ(バレリー)
ブラームス:VN・ソナタ1&2
 きっと身の毛もよだつ霊界を覗かせてくれるであろう.完全に「あなたの知らない世界」である.

 いずれにしてもヴァイオリンソナタの最高傑作であることに間違いはない.19世紀後半の曲だが,完全な古典派であり,最大の歌曲作曲家の一人ブラームスのリラックスした真骨頂が十分に堪能できる.ベートーヴェンの流れから最初に聴くのにもってこいだと思う.ロマンチックなのにやかましくない.

 そして最晩年へいたると,ロマンという水分は完全に枯れ果てる.この世界を私はうまく表現できない.1年で言うならば,「11月」のような音楽だ.燦々たる夏の記憶は遠く,秋の実りやまだ暖かみを残す静けさは過ぎ去り,美しい雪景色はまだ訪れず,次の春は永遠に来ないかのように彼方にある.気温は十分に低く,大地は乾燥し,夜は長く,空にはアンタレスが怪しく輝く.

 この最高に枯れた世界を紡ぎ出す名手が先程もあげたヴァレリー・アファナシエフである.


アファナシエフ(ヴァレリー), ブラームス
ブラームス:後期ピアノ曲集
 この曲集はあのグレン・グールドも録音して名演を聴かせているのであるが,このアファナシエフ盤はおそらく史上最高の傑作であろう.完全なる「あの世」の音楽である.彼のテンポは「激遅」で有名であるが,ただ遅いのではもちろんない.演奏時間が極端に長いわけではないのだ.ならばなぜ遅く感じるのか.それは当然ここで入ると思われるタイミングでパルスが入ってこないからだ.

 規則正しい拍子で当然予想されるはずのパルスがほんの少しだけ後ろにずれていく.本当に少しだけなのだ.だからテンポ自体はほとんど変わらない.しかしその少しだけの遅れが,息も止まるほどの緊張感をもたらす.本当に彼の音楽を聴くと,息ができなくなってくる.こちらの呼吸までずらされるのだ.だんだん息がゆっくりになって,二酸化炭素がたまって頭がぼーっとしてくる.その先にあるのは..


 死だ.


 図ってかそうでないかは不明であるが,ブラームス最晩年のピアノ曲は安らかに死にゆく,枯れていく生命を表現したものである.悲しみも愛も怒りもない.あるのはただ「受容」のみである.しかし絶対音楽の継承者といわれるブラームスである.全てを受け入れながらも,その指はしっかりと未来を指し示していた.

 3つの間奏曲とよばれる作品117の第1曲.主題の再現部において,彼はたった一回だけ極めて印象深い不協和音を残している.まるで11月の乾いた大地に咲く青いバラのようである.この「あり得ないバラ」はなぜか冬をも生き抜き,西洋古典音楽の荒波に対し絶望的な戦いを挑んだロマン派最後の巨匠,アルノルト・シェーンベルクに見いだされるのである.

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