独断と偏見および多少の根拠にもとづくゴールの見えないクラシック入門シリーズ第5弾であるが,ちょっと言い訳をしておきたいことがある.巷のクラシックファンには,「現行の西洋音楽史観,すなわちドイツ・オーストリア中心主義,という音楽史は戦後ドイツの陰謀である.この鬱蒼とした森林の国以外にもすばらしい音楽史がある」という根強い意見がある.これはもちろんそうだと思う.

 しかしこのシリーズにおいてはあえて2つの理由からその意見は無視することにする.理由の一つはこれがあくまで入門を銘打っているからであり,人口に膾炙している考え方をまず知ることが大事だと思うからだ.理由の2つめは,そうはいっても楽理面にたいするドイツ・オーストリア音楽の貢献度はやはり他地域よりも抜きんでていると考えるからだ.

 もちろん商業ベース・大衆性ということで考えた場合,北部ヨーロッパより地中海側の音楽文化のほうがはるかに興行的成功を収めている.ロッシーニ・プッチーニ・ヴェルディ・ファリャなどイタリア・スペインの作曲家には売れっ子が多い.お高くとまっているジャガイモ音楽よりよっぽど洗練されていると考えるのも無理はない.しかし問題はウンチクなのである.

 泥臭く語るという点に置いて,北部ヨーロッパ音楽の右に出る物はない.20世紀はイズムの時代であった.さまざまな主義が勃興し,そして廃れていった.その流れの中でやはり北部ヨーロッパの肩肘はった音楽イズムが幅をきかせたのは仕方がない.ピタゴラスから続く音楽の数論的な可能性についてとことん追求したのはやはりドイツ・オーストリア音楽なのだ.今世紀はイズムがなくなり,シューマンよりもロッシーニ,ドビュッシーよりはプッチーニという時代になるかもしれない.しかしとりあえずこのシリーズでは20世紀に広く通用したドイツ・オーストリア音楽史の観点から述べていくことにする.

前置きが長くなりすぎた.



 バロックという言葉は「歪んだ真珠」というポルトガル語からきているという.どうやら過剰な装飾を批判するために建築業界で使われていた言葉らしいが,転じてルネッサンス以後の装飾豊富な芸術時代を指すようになったらしい.ルネッサンスというのはリアリティに迫る時代であるからして,写実とむき出しの自然に注目する時代であったが,バロックは一度裸にした人間を改めて着飾っていく過程とも言えるだろう.

 ヴィヴァルディは古いとはいえそれでもバロック後期の作曲家である.モンテヴェルディはどうしたとかコレルリは?ブクステフーデは?ジョン・ダウランドは?という声は完全に無視する.ヴィヴァルディも20世紀後半になってかなり研究が進んできた部分もあり,もっと時代が下ってジャン・フィリップ・ラモーやゲオルグ・フィリップ・テレマンも今世紀にはかなり評価を上げてくると思われる.新しい発見もあるだろう.しかしこの辺は「小中学校の教科書にも載っていない」という理由によりばっさり切り捨てることとする.仕方ないジャン.

 今回は同じ1685年という年に生まれた3人の作曲家に注目する.一人はドイツに生まれイギリスに没したゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル.もう一人はイタリアに生まれスペインに没したドメニコ・スカルラッティ.そしてドイツに生まれドイツに没したヨハン・セバスチアン・バッハ.この3人である.この3人はそれぞれの作風の距離感を示すかのようにヨーロッパに散り,それぞれの役割をはたして次世代への橋となった.

 この3人を並べたのは単純に同じ年に生まれたからというだけではないが,バランス良い音楽史から見て正当というわけでもない.他に特にあげるべき作曲家は2・3思い浮かぶが現時点ではやや知名度に劣るために除外した.例えば前述したテレマンはその膨大な作曲群の全貌がいまだつまびらかでなく,今世紀の研究でかなりの地位向上が見込める.というか当時は大バッハやヘンデルよりテレマンの方が売れっ子であったようだ.とはいえバロックの作曲家でこの3人以外にまともにショップで売っているような作曲家はいない.

 この3人はそれぞれ強烈な個性を持っていたが,それについて理解するためには当時の作曲手法がどのような状況に置かれていたかと言うことを知る必要がある..楽理面から言うとルネッサンス以降の音楽というのはポリフォニーが中心であった.おおざっぱに言うとポリフォニーというのは各声部(旋律)が対等な重みを持って絡み合う音楽である.鍵盤楽器で言うと,右手と左手がそれぞれ対等な役割を持つということである.そして古典派以降の音楽はホモフォニーと呼ばれている.これまたおおざっぱに言うと,右手はメロディー・左手は伴奏という我々が慣れ親しんだ音楽である.

 バロックはまさにその橋の部分にいた.ヘンデル・スカルラッティ・テレマンはその先頭を走らんとしていたわけである.しかし後で述べるが,バッハはかならずしもそうではない.ヘンデルの個性とは何かと考えると,最初の本格的メロディーメーカーではないかと思う.人間の声のごとく器楽を歌わせるという意味のメロディーである.そして彼はオペラやオラトリオなど劇場音楽を得意としており,イタリア音楽の非常に華やかな部分を北部ヨーロッパに伝えたという意義が大きい.非常に美しいアリアをたくさん残している.また器楽でも非常にホモフォニックな語法を多用しており,古典期の作曲家にも様々な影響を与えた.

 ドメニコ・スカルラッティは非常に特異な作曲家であり,その代表作は555曲にもおよぶ膨大な鍵盤音楽のための「ソナタ」である.このソナタとはいわゆる「ソナタ形式」のソナタではなく,単に器楽音楽という意味のソナタである.基本的に単一楽章・2部形式の小品であるが,よくもこの形式だけでこんなに膨大な量の作曲が出来たものだと思う.たとえは悪いが,毎日違うアレンジのチャーハンで1年を過ごすようなものだ.ある意味すさまじい創造力である.

 (スカルラッティの業績は,父のアレッサンドロ・スカルラッティとセットにして語られても良いだろう.音楽語法としては息子の方が独力で古典派の域にまで達していたが,親父の方は次世代のオペラ形式を整える上で重要な役割を果たした.この辺はちょっと省こう.)

 このスカルラッティのソナタは,長い西洋古典音楽史の中でもひときわ異彩を放つ作品群である.前後の関係がほとんどない突然変異体だ.もちろん語法としては対位法のような旋律の絡みもあり,また古典派のホモフォニックな展開もありどちらの楽理にも長けていたと考えられる.しかし最終的にスペインに移り住んだということもあるかもしれないが,イタリアで発展していたトリオソナタや無伴奏ソナタの形式とは似ても似つかず,また彼の形式を引き継いだ作曲家もまったくと言っていいほどいない.まさに音楽のガラパゴス諸島である.しかし古典期~ロマン派を経ても決して忘れ去られることなく存在し,今ではピアニストたちの重要なレパートリーになっている.ちなみにギター編曲も多い.

 さて最後はバッハだ.ヨハン・セバスチアン・バッハは現代においては「音楽の父」とも称されるほどに偉大な作曲家だとされる.しかし意外に思えるが同時代人の中では最も保守的というか,確信的に「後ろ向き」な作曲家であった.彼の人生はシューベルトのようなボヘミアンではないが,徹底した興行的無関心に貫かれている.それゆえ当時のバッハは作曲家というよりもオルガンの名手として知られていたのである.ギャラの高いテレマンに断られて,しかたなくバッハが呼ばれたこともあるという逸話もある.バッハ信者が聞いたら卒倒しそうな話だ.

 彼がひたすら追求したのは,究極の楽理と究極の器楽法である.器楽法という点では現代の熟達した演奏家でも容易に近寄れない至高の作品群をいくつものこしている.バッハというとひたすら精神性のことが注目される嫌いがあるが,本来注目されるべきは純粋な技術の極致である.そして楽理面では古典音楽の技術的最高峰とされる「フーガ」のマイスターであった.

 ベートーヴェンもモーツァルトもリストもシューマンも,作曲をつきつめてたどり着いたのは結局フーガである.彼らがその人生の後期になってようやくたどり着いた境地には,すでに巨人バッハの広大な庭園が築かれていたという具合だ.それほどにフーガという物は作曲家にとって重いジャンルなのだが,大バッハはまるで息を吐くようにフーガを書いた.これほどまでの技術を持っていると,ホモフォニー音楽は簡単すぎてやっていられなかっただろう.バッハは調性的なホモフォニーをすっ飛ばして,より調性の曖昧な半音階進行にたどり着いている.

 いやたどり着いていると言うよりは,「このくらい余裕です」といわんばかりの勢いだ.100年以上を見通し,後世の作曲家をあざわらうがのごとく,半音階でフーガをかいて見せたりする.ひょっとしたらバッハは,ホモフォニー音楽が必然的に半音階進行へ至り,そして調性を失って崩壊するところまで予見していたかもしれない.楽理という面では,彼はそれまでの歴史の全てをふまえていたし,その後に起こる全てを内包している可能性がある.12音技法も含めてだ.

 バッハはたくさんの子供がいて,みな音楽家になった.次男のカール・エマヌエル・バッハは親父よりも有名な作曲家であり,そのクラヴィーア奏法や作曲法は次世代の古典派の礎となっている.末っ子のクリスティアンは直接モーツアルトを手ほどきしている.しかしどの息子たちも,あまり有名でない親父の強力な擁護者であった.彼らの強力な弁護により,大バッハの音楽は細々と出はあるが確実に後世へ伝えられたのである.



長くなった....アルバムを紹介しよう.

時代の流れに乗り切った作曲家,ヘンデル.
時代の流れから隔離された作曲家,スカルラッティ.
時代の流れに逆らい歴史に超越した作曲家,バッハ.

 この同い年の作曲家を一つにまとめ,しかし選曲は口当たりよく,いつでも入手できる奇跡のようなアルバムがある.
シンフォニア  

最近はひどくこき下ろしてしまっているが,この項においてこれほどフィットしたアルバムも他にない.人気ギタリスト村治佳織によるこのアルバムは,意識的に1685年生まれの3人の作曲家をテーマにしている.ギターであるが,実はオリジナルギター曲は一つもない.すべて編曲だ(当たり前である).基本的にはよく知られた小品集であり,この項で述べられているような仰々しさは微塵もなく,安心してお聞き頂ける.

 村治佳織は私と同じ1978年生まれ.父の村治昇はクラシックギター早期教育の先駆けであり,その親父のてほどきで2歳(3歳?)からギターを始める.1992年には若干14歳で東京国際ギターコンクール最年少1位を獲得しており,翌年にはCDデビュー.これは3作目のアルバムであり,エコール・ノルマルへ留学する前の物である.小さなクラシック業界のなかでも数少ない「稼げる」音楽家である.

 日本人発のデッカ専属契約アーチストであり,やや単調な音色ながら技術的な問題は少ない.しかし2005年に腕を壊し長期休養を取った時期があり,またその前後からその音楽性は方向感を見失っている.最近また「アランフェス協奏曲」を録音したらしく,一皮むけた復活を期待したい.

 もう一つ紹介しよう.
森麻季, ミヨー, オッフェンバック, J.シュトラウス, 山田耕筰, バッハ, ヘンデル, フォーレ, ショーソン, コルンゴールト
あなたがそばにいたら~Bist du bei mir~(CCCD)
 新人ソプラノ,森麻季による小品集.これで注目したいのはヘンデルの歌心である.上の村治のアルバムの中にも「オンブラマイフ」があったが非常に美しいアリアだ.歌曲なのでスカルラッティはない.他にはフランス近代のミヨーやショーソンの歌が入っている.森麻季は中学卒業後,入学試験用の楽譜を片手に単身イタリアに乗り込むという偉業をやってのけた人である.しかも学校に着いたときはすでに試験は終わっていて,それでも何とか頼み込んで個別試験をやってもらい入学を果たしたという驚異的な強者である.こんなことをやり遂げたのはひょっとしたら小澤征爾以来かもしれない.

 さて音楽の父とも称されるバッハ,その職人の極致に敬意を表して,やはりバッハについてはもうすこしアルバムを紹介すべきだろう.

Johann Sebastian Bach, Richard Tognetti, Alison Mitchell, Australian Chamber Orchestra, Angela Hewitt
Bach: The Keyboard Concertos, Vol. 1 [Hybrid SACD]
 アンジェラ・ヒューイットはカナダ・オタワ生まれのピアニストで非常に現代的な感性を持ったピアニストである.音の粒立ちの良さはあのマルタ・アルゲリッチにも劣らない.このアルバムに収められているのはバッハのピアノ協奏曲なわけであるが,もちろんのこと当時ピアノはなく,これはチェンバロのための協奏曲である.注目したいのはブランデンブルク協奏曲第5番である.

 当時の合奏の中で,チェンバロなどの鍵盤楽器は和声進行を示すだけの「通奏低音」として用いられており,ソロとしての活躍の場はなかった.ヴィヴァルディでさえチェンバロ協奏曲は書いていない.ブランデンブルク協奏曲とは当時存在した様々な楽器のための非常に高度な協奏曲集であり,第5番は第1楽章に長大なチェンバロソロを含むチェンバロ協奏曲となっている.形式的にもロマン派のピアノ協奏曲に劣らない壮大な構成・ドラマチックな展開をみせ,結果的に史上初のクラヴィーア協奏曲となっている.またヴァイオリン・フルートもソリスティックな動きをみせ聴き応え充分.

 バッハの名手としてはなにはともあれグレン・グールドをあげなくてはならないが(どちらもカナダ出身というのは興味深い),最初はヒューイットから入るのもいいだろう.しかし彼女がバッハ全曲録音を目指しているハイペリオンというレーベルは日本法人がないようで輸入盤しか手に入らないのは残念だ.とはいえ比較的入手はしやすい筈だ.アマゾンでも在庫がある.

 もうひとつ.手に入りやすいという趣旨から少々ずれてしまうが,「カフェ・ツィマーマン」という合奏団が録音した「様々な楽器のための協奏曲」という非常に優れた録音がある.アマゾンに在庫は無いが,HMVには在庫がありすぐに出荷されるようだ.「カフェ・ツィマーマン」とはライプチヒに実在したコーヒーハウスの名前で,バッハの時代から器楽のライブ演奏が行われていたようである.

 そこから名前を取った楽団はいわゆる「古楽器(当時の楽器」奏者の若手名手からなる新進の楽団で,2002年くらいからバッハやバロック後期の作曲家の掘り出し物的な作品を年に一度リリースしている.最新2007年はイギリスの無名作曲家エイヴィソンによるドメニコ・スカルラッティ鍵盤ソナタのコンチェルトグロッソへの編曲物という怪作である.バッハのコンチェルトについては今まで3枚のアルバムが出ており,一番のおすすめは第3集である.ここにはブランデンブルク協奏曲第4番を始め,比較的有名な管弦楽組曲第2番が納められている.この組曲第2番は,あるいフルート協奏曲とも言える物である.

 バッハの協奏曲はヴィヴァルディからの編曲もあり,完全なイタリア形式を踏襲した上でより高いヴィルトゥオジティを達成している.ブランデンブルク協奏曲はどれもこれもすばらしい曲であり,ただすばらしいだけでなく活力が沸いておなかがすいてくる曲だ.ブランデンブルク協奏曲を聴くと,私はいつもイタリアンが食べたくなる.そういう類の「幸せな音楽」である.

 アンジェラ・ヒューイット,カフェ・ツィマーマンともに非常に録音状態が良く,おすすめである.



 次は「教師」ハイドンについて述べる.