「フィジカルインテンシティ」という連載エッセイにおいて,村上龍は勝利を渇望するアスリートのことをこう表現した.

 「細胞が勝利を欲している」

ほかのエッセイでも書いているが,日本語にはdesireに相当する訳語がないという指摘がなされている.desireとはきわめて主体的な行為である.「望む」という単語は方向性としてはたしかに近いが,はるかに「インテンシティ」が劣る.「希望」とか「願望」という言葉はどこか他人任せというか,そうなればいいな,相手に受け入れられればいいな,というような意味合いがこもってしまっている.「欲望」という言葉は人間の生理的欲求に近すぎる.

 desireとはきわめて力強い観念で,そして主体的だ.村上が指摘するとおり,我々の土壇場での弱さというのはどこか他人事のような「願望」という表現に現れているのかもしれない.われわれの行動する文脈においては「~~しなければならない」と「~~しさえすればよい」という二つの動機が支配的であり,主体的な願望が結実しにくい.

 たとえば勝負事においては「勝たなければならない」という動機と「勝てばよい」という動機の2つが支配的なのだ.勝ちたい,相手をねじ伏せたい,生き残りたい,という主体的願望が強烈に表現されることはない.そのような願望を表現するのは「子供っぽい」という感性が底流にあるような気がする.しかしそれは完全な間違いだ.

 「ねばならない」「しさえすればよい」という動機は実はともに命令に対する反応であり,主体性がゼロである.特に日本のマスメディアの文脈においては「勝たなければならない」という外的圧力と「勝ちさえすればよい」という開き直りしかない.この動機からは残念ながら縮小均衡しか成り立たないのである.勝たなければならないという圧力からは,負けたときの言い訳を探す動機が生まれ,勝ちさえすればよいという開き直りからは,勝利の確率を限界まで高め敗北の確率を限界まで下げるモチベーションが生まれない.

 そして困ったことに,このようなモチベーションから生まれた勝利では,決してうれしくない.

 ゴールを決めても決められても,「あ,,,はいっちゃっった.」みたいな反応しかしない日本人選手を見ていると,そういう説明が出来るような気がする.

村上 龍
フィジカル・インテンシティ〈’97‐98season〉ソウル、ジョホールバル、トゥールーズ、ナント、リヨン、ペルージャ
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奇跡的なカタルシス―フィジカル・インテンシティ II 知恵の森文庫
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アウェーで戦うために―フィジカル・インテンシティ III