日本国の元トップ暗殺事件をきっかけに、にわかに名前が再浮上してきたカルト集団・・・・

史上最長の長期政権で「御意見無用、文句あるなら即解散!」と不満分子を徹底排除し、黒いモノも白くしてしまう強権政治を具現化した安倍元首相は「このオッサンが目指してんのは習近平なんかな?」と思わせる唯我独尊ぷりだったガーンガーンガーンガーンガーン

代々が政治家、そして閣僚とゆう家に産まれれば本人の望むか否かは関係なく、ガキの頃から政治家まっしぐらの人生だったのだろう(知らんけど多分・・・・)足足足足足

一国のトップなんぞ想像を絶するストレスを伴うのだろうが、病を理由に(ホントのトコは知らんよ)二度もその座を降りたっつうのがオレは気に喰わんムキームキームキームキームキー

どさくさ紛れに後を継ぎ、コロナとゆう人類が初めて直面する未知の細菌に世界中が翻弄される中、オレの知りうる限り歴代でもイチニを争うレベルで「何もしなかった首相」菅元首相はそう遠くない将来に忘れ去られてしまうのだろうが、長期政権の上で功も罪もある安倍元首相はその最期も含め後世まで語り継がれるコトになるのだろう。

ネットの普及で誰もが表現者(発言者)になれてしまう現代は、その匿名性が災いしてか?残念なコトにネガティブな評価がモノサシの基準になっている気がね・・・・

「善い行い」は評価されるコトなく、「悪い行い」はそれ見たコトかと寄ってたかって叩きまくられる筋肉筋肉筋肉筋肉筋肉

「人間、悪いコトばっかしとると己の精神バランスがとれんようになる。だからその反動でええコトして帳尻合わせようとするんや・・・・」

Vシネマ「ミナミの帝王」の劇中にヤミ金業者 萬田はん(竹内力ね)が吐く名言のひとつ札束札束札束札束札束

「善い行い」が帳消しになるどころか、なかったコトになりかねんぐらい「悪い行い」がクローズアップされた安倍元首相。品行方正な人間も、真っ白な政治家もおらんのは周知のコト。悪事なんつうのはバレなきゃいいと思うが、露呈した時にどうケジメを取るかよねドクロドクロドクロドクロドクロ

今までもたくさんの議員センセーがその政治家人生に幕を降ろさざるを得なくなったが安倍元首相は?

のらくらと灰色のままその座に居座り、末端の関係者だけが次々に処分され、日本人の美徳とされる「武士道」など欠片も見えん煮え切らなさで、ただただ時が経てば黒が白になるだろ的な何ともやれん、何も決着してない決着の付け方では「ブッ殺したくなる」ほどのアンチが出現してもおかしくないやろ・・・・

死んだ人のコトをどうこう言うのは憚れるが、個人的には大キライな政治家でした炎炎炎炎炎
暗殺犯の背景からにわかに騒がれ出した統一教会だが、久々に名前聞いたし、改名してんのも初めて知ったわ・・・・

限りなく無信心国家の日本、絶対的な神がおらんからこそ新興宗教が蔓延り易いんかな?とか思うが、これは個人的な意見です。

そもそも生き神なんつうのはいるワケないのだから、生きてる神がおる宗教団体なんて100%カルトやろ十字架十字架十字架十字架十字架

何千年の歴史がある仏教だろうが、イスラムだろうが、ジーザスだろうが、最初は新興宗教なのだ。

他のキチガイ宗教と一線を画する、とゆうか政治家とうまくカラんでイチ抜けで市民権を勝ち取った「創価学会」を支持背景に持つ公明党が「政治と宗教の融和」について否定的な意見を発信していたが、目くそ鼻くそだろ~もやもやもやもやもやもやもやもやもやもや

1980年代後半、オレが目指し、お世話になったライブハウス「Lamama」が入る道玄坂のビルから始まったカルト集団がおりました。

当時、よう利用してた東急の新玉川線の電車内をうろついてた動物の着ぐるみに身をまとった変な人達・・・・犬犬犬犬犬

渋谷の駅前とかにもワンサカおって、さかんにセミナーの案内のビラを配っていたが、ヤツらこそ後に国中を震撼させる「オウム真理教」だったのだ。が、当時のオレは知る由もなかったアセアセアセアセアセアセアセアセアセアセ
まだまだ地下でよからぬエトセトラを企てながら「徳を積むと宙に浮けるのだ」とワケの分からんヨガのビデオを世に発信していたマッドジーザスを渋谷の駅前で見たコトがあるが、何か選挙に打って出た時だったな・・・・

アグラのままただピョンピョン跳ねてるだけで、絶対に腰に悪いだろうな・・・・と思いつつ、こんなモノを真剣に見てるヤツがおるとゆうのが笑けたが、たまたま政治家を取り込めなかったオウム真理教は選挙では大敗しておりましたガーンガーンガーンガーンガーン

ちょうどこの頃、富士五湖巡りのドライブに出たコトがあった車車車車車

1日で回るので駆け足で湖の周りを走り抜け、クルマを下りて町をウロつくコトもなかったのだが、たまたま入り込んでしまった異様な村がありました・・・・

村への出入りは2本の道しかなく、早い話どっちにも関所を作ってしまえば人の出入りが完璧にチェック出来るとゆうね。

もちろん普通に暮らしてる元々の村民もおったが、アタマに何か変なモノを巻いてるよう分からん人も歩いていて「何か異様な村だな・・・・」と思ったのを昨日のコトのように思い出す魂魂魂魂魂
既に悪事が沸々粛々と進められていたのだろう変な建物(後にサティアンとゆう名前だと分かるが・・・・)もチラチラ点在していて、異様空間を演出するのにおおいにプラスになっていた・・・・びっくりびっくりびっくりびっくりびっくり

この変な村こそがオウム真理教が日本転覆を画策していた「上九一色村」だったのだが、この時点では知りようもないよなぁ・・・・

ドライブから半年ばかり経って、先ずは長野県で最初のサリン事件が発生するが、スケールの小ささから気にとめるコトもなかった。

が、そこからしばらくして今度は大々的に東京でサリン事件が発生する爆弾爆弾爆弾爆弾爆弾

連日の報道からオレが見てた色々がオウム関連の何かだったコトが次々に分かっていった。新玉川線の中や、渋谷の駅前、Lamamaの入ってたプリメーラにいたアイツらも、湖の畔の村で見た異様な人や建物、全てが一本の線になったのだ・・・・
当時、西麻布や南青山の辺りにもよう遊びに出没してたのでこの変な名前の看板だらけのビルの前もよう通っていた・・・・

戦後40年以上が経過した日本は、祖父ちゃんや父ちゃんの頑張りもあり経済的にも右肩上がりの頂点「バブル」に突入。その1980年代に10代の青春期を過ごしたオレらは、家族のタメ、世のタメに学校を出たらひたすら働く・・・・とゆうそれまでの人生観が大きく変わった最初の世代でもあるだろう。

「夢」を追っていいんだとね星星星星星

戦後の焼け野原から横一線で始まった復興レースは、いつしか競争社会を生み出し、学歴偏重の歪んだ世の中が形成され「落ちこぼれ」とゆう競争から弾き出されたヤツを蔑みの目で表すコトバが生まれる・・・・

親の経済的な庇護の元で不自由なく育てられ、夢を追うコトを許されたオレ達は、オトナになっても「自由に生きる」とゆう何とも曖昧な人生観で好き勝手に動き、そして壁にブチ当たるのだおばけおばけおばけおばけおばけ
親や社会が敷いたレールから外れて好きに生きる!ま、カッコいいけどテメェのコアによほどの信念がないと意外としんどいのですよ。

やるコトなすコト全てテメェで決められる反面、失敗しても誰のせいでもなくやはりテメェの責任。

信念を持ち取り組んできたコトが世の中に受け入れられずに我を見失い、おかしな道を歩き出す仲間を何十人と見てきました・・・・うずまきうずまきうずまきうずまきうずまき

自分とゆう「神」を信じられなくなったら何を信じる?

仏陀もジーザスもアラーも存在感が薄い日本では、池田大作やら大川隆法やら麻原彰晃やらのインチキ臭い生き神に洗脳されるか、ガラクタを無差別に売りつけて格を上げていきましょう!的なマルチビジネスに洗脳されるヤツが多かった・・・・泣泣泣泣泣

だいたいドコの洗脳団体にもあるコトなのだろうが跡目争いで教団が真っ二つ!なんつうコトがあっていいんか?
純粋に世のタメ、人のタメなら位(くらい)とか権力とか要らんのは真っ当な小学生でも分かるコト。

それすら見えなくなるほどの洗脳を受けたヤツと激論になったコトもありました・・・・

たいしたバンドマンでもないオレが、ちょこちょこ面倒見ていた若いギター弾き(オレも22歳ぐらいだったけどね)に久しぶりに再会した時に何やよう分からんセミナーに誘われました・・・・

??????

「お前何やってんの?」
「いや、ちょっと迷いがあった時にこの人に背中押してもらってボクの人生好転したんすよ」
「で?その見返りに何やらされてんの?」
「いや、お賽銭あげて、教典買って勉強してるだけですよ」
「お賽銭?はぁ?教典?買わなきゃならんの?」

こっから4時間ひたすら平行線のバトルが続き、マジでぶっ飛ばしてやろうかと思うほどイカれてて、最後まで分かり合うコトもなく、その日から軽く31年オレは彼に会っておりません・・・・アセアセアセアセアセアセアセアセアセアセ

サリン事件でダチが軽くサリンを吸ってしまうとゆうほどオウム真理教が身近な存在になってきて、コレはじっとしてちゃアカンと野次馬根性丸出しで騒然とするオウムの各拠点を巡ったモノです・・・・地球地球地球地球地球

音楽活動に限界を感じた仲間達が、一人また一人とおかしなカルト教団やらマルチビジネスに首を突っ込み出したのと同時期で、めんどくさい勧誘やら売り込みやらの話が山ほど舞い込み、そのおかげで人間関係がアチコチで歪み出していた。

「アイツが変な宗教に入信して話にならんからクビにしたんでナベうちで弾いてくんない?」

こんなメンバー探しの連絡とかマジでありました・・・・

洗脳が解けたダチが、不要になった高額をはたいて買った仏壇を捨てるのを手伝ったり・・・・

影響力の強いバンドマンがカルトにハマると、その周りもイモヅル式に巻き込まれていく。プレイするバンドも、オーディエンスもみなカルト教団とゆうライブも見たコトがあるが、ついこないだまで悪党だったヤツが、カルマについて嘆き、メシアに救いを求め、それをリリックにして代弁するもやもやもやもやもやもやもやもやもやもや

人のフリ見て我がフリ・・・・を最初に強く意識した時期でもありました電球電球電球電球電球

サリン事件後の南青山に、上九一色村に、富士宮に足を運び、一人の狂った男に人生をいいように弄ばれたいいオトナ達の末路を目の当たりにしながら「オレは常にオレであろう!」と強く誓ったモノです。

再び上九一色村に向かったその日、報道陣に紛れて規制線の際でサティアンを眺めるオレらの目の前で地下に潜伏していたオウム幹部が二人パクられました・・・・ガーンガーンガーンガーンガーン
そんなオウムの色々も20年も経てば忘れるっつうモノだが、2014年に久しぶりに南青山を通ると・・・・

そこには無人となって久しいあのビルが当時のまま残っておりました。

隣のマンションもそのまま、ただあの時のような野次馬はおらんし、オウムの拠点がここにあったなどとはパッと見分からん雰囲気を醸していた。

バブル崩壊後、たくさんの人が人生を見失い、救いを求めてアチコチのヤバい世界に逃げ込んでいったが今はどうなっているのだろう?

オレの周りにもカルト、マルチに身を貶めていった仲間が何人もいたがアイツらは今どうなっているのだろう?
2018年、またしてもオウム真理教総本部跡の前を通るとあのビルが無くなっておりました・・・・

オレはよく知らんが様々な団体やら教団やらが現れては消える胡散臭い世界。

そんな闇の力まで借りて政権を、自分ワールドを作ろうとしていた安倍元首相を「功労者」として神格化する人もたくさんおるが、評価は人それぞれだから別に文句も何もないけど、オレはね・・・・

あんたのやってたコトは大間違いだよムカムカムカムカムカムカムカムカムカムカ

と、思うね・・・・

右向け右の農耕民族、長いモノには巻かれろ的な画一主義、別に悪いコトとは思わんが、時には立ち止まってテメェのやってるコトを見つめるのも大事かと。

Do the right thing!!!!!












オレの中の唯一無二のロックバンド「Motley Crue」のリーダー Nikki Sixx が率いる別プロジェクト「Sixx AM」の1stアルバムに収められているミディアムテンポのロックチューン「Life is Beautiful」。

ヘロインの過剰摂取で死にかけたコトもあるロックスターの「生きる」つう人類、いや生物の大根幹への想いや葛藤がリリックに綴られている。
当たり前の話だが、この世に「生」を承けた全ての生き物がいつかその生涯を閉じる。

それが何年なら早くて、何年なら遅くて、何年ならちょうど良いのか?

下らねぇ・・・・

呼吸してた時間じゃないだろ?
53歳になったオレは、今までに60人を超えるダチが天に(人によっちゃ地獄のヤツも)召されてしまったのだが・・・・

特に今年はねぇ、半分過ぎた今の時点で実に6人の仲間が二度と会えん鬼籍に入っちまった。

死因は様々なのだが、この3年近く世界的に猛威を奮うコロナが原因で死んだヤツはおらんのが不思議よね・・・・

先週の話です。
一人の「ダチ」の訃報が届きました。

エドゥアルド、めんどくさいからエディね。
出会いは2008年の夏頃かな・・・・
オープン景気も一段落して、まだまだヒマな日の方が多かったDFGにフラリと入ってきたのがラトビア出身の彼だった。

バイオリンプレイヤーだったが、音楽ファミリーに産まれ親も兄弟もミュージシャンとゆう環境でなるべくして音楽家になったっつう感じかな?

ビールを2~3本おとなしく飲んで帰る、最初の1週間ほどはこんな感じでしたわ。
DFG 12年間の三軒茶屋での営業期間、恐らく三茶でもイチニのガイジンが集まる店だったと思うのだが・・・・
(駅裏にスタンディングのビアパブがあって、世界中からセレクトしたごたわりのドラフトビールが売りで、ここもガイジンが多かった)

まぁ、そんなドコの店がイチバンかなんてのはどうでもよくて、実際に64ヶ国から400人近いガイジンがDFGのカウンターにやって来ました。

9割のヤツが「オハヨゴザイマス」「コンニチハ」「ニホンゴハナセマセン」ぐらいの日本語レベル、中には英語もおぼつかないスペイン語しか、フランス語しか、みたいなのもおって「そもそも旅をする資格なし!」な非常識なガイジンにもたくさん出会いました・・・・
2015年版ガイジン来店ランキング

エディもそっちの仲間で、彼の場合は旅とかではなく日本で生活してるにもかかわらず、しかもまあまあな年数にもかかわらず、ほぼ喋れん上に英語もかなりブロークンで一緒に飲んでるアメリカ人やイギリス人に通じないとゆうお手上げ状態・・・・

当時オレは39歳、彼は36歳、後から判明するのだが20代の頃から心身を酒に支配され何度も入退院を繰り返していたとゆう筋金入りの「アルコホリック」で、アル中つうのは1日中酔ってるので飲みにエンディングがありません・・・・

要は20時のオープンと同時ぐらいにDFGインで朝の4~5時のアウトまで飲み続けるとゆうね。
エディの DFG でのビールは1週間で卒業となり、すぐに本領発揮のテキーラショットにかわるのだった。

これがねぇ、とにかくコレしか飲まんエディに付き合ってオレも飲まされるワケで、他に誰かおればそいつも巻き込まれるが、オレしかおらん時は延々と二人でショット合戦が続くのだ・・・・

半年 日本~3ヶ月オーストリア~半年 日本~3ヶ月オーストリア、そんなサイクルで往ったり来たりを繰り返してる彼が日本にいる間はほぼ毎晩コレが最低1本は空に、ヒドい日は2本空くワケです。

1ヶ月で30本、半年で180本・・・・
どんだけクエルボに貢献したんだ?オレらは!

生まれながらの超絶健康体のオレは、外傷的なモノ以外で病院の世話になったコトがないぐらい病知らずなのだが、毎晩ボトル半分のテキーラをやっつけ続けたら?

多少 具合も悪くなってきますわ・・・・

救いは半年ほどでエディが一旦いなくなるとゆうね、次に戻ってくる3ヶ月後までに体調を戻す時間があるとゆうコトでもあり、あれがなかったら今頃オレもとっくに死んでたかもな。
10代をモスクワを中心に活動していたエディはやがて西ヨーロッパのオーストリアはウィーンに拠点を移す(もちろん、この頃はオレらは知り合いでも何でもないが)。

DFG に出入りしていたミュージシャンの中でも間違いなくワールドレベルの彼は、ウィーンで仲良うなった沢山のミュージシャンの中でもこの変人ギタリストとはかなりウマが合ったらしい・・・・
オレがガキの頃好きだったギタープレイヤー George Lynch さんは彼に言わすとチューニングが甘くビブラートがうっとおしいとのコト・・・・

あのビブラートがこの人のウリちゃうんか?
こうして毎晩やって来るようになるのだが、アル中、テキーラショット強制、言葉の問題あり、エゴ丸出しのミュージシャン、のプラス要素ゼロの彼と他のミュージシャン、バンドマンが絡むと?

ケミストリーは何も産まれません。ひたすらトラブルが産まれ続けるのだが、中でもこの YAS69 とは数々のバトルが勃発し、割って入って仲裁→ケンカ両成敗で両者追い出し→翌日また再会→手打ちの意味でDFGから一杯ずつ→手打ち→1時間後にまたしてもケンカ勃発・・・・

これが絶え間なく繰り返され、オレも疲れはてた時期もあったのだが、やはりアル中だった YAS69 はエディより3年ほど先に地獄へと収監されていきました。
色んなジャンキーを見てきたオレが思うに、世界最強のドラッグは「酒」だね・・・・

すぐに死ぬコトもないこのソフトドラッグ。常識とか、正義とかを振り回すゴタク・ウンチク好きなヤツの中にも酒好きは山ほどいて、合法だからと積極的に摂取して口が軽くなり、更にめんどくせぇ話をし出すとゆう弊害も持ち合わせる。

だいたい過剰摂取で死ぬ可能性もあるへヴィドラッグなんてノリでやり続けられるヤツなんておらん。みんなどっかでビビりながらやるワケですよ。

それにひきかえ酒は?

街中や、駅や、電車の中で酔っ払って寝てる酒飲みなんぞ、量を間違えて動けなくなってるジャンキーと同じだと思うね・・・・
YAS69 の場合、死の直前まで飲み続けていたと思われるが、エディの場合は何度目なのかは知らんが本格的に断酒に入ったのがいつ頃やろ?

2013年頃だったかな?

DFG でもね、ノンアルコール飲料を用意してエディのアル中克服の助けになればと頑張ったで。
ネガティブな部分が改善されると人間なんぞ不思議なモノで、色々なトコが積極的になっていく。

旧知の友とゆうオーストリア人のヴィオラプレイヤーのピーターがこの頃からちょいちょい日本に来るようになりました。

ペーターさん、聞けば Pink Floyd のステージにも共演で上がったコトがあるとゆう猛者!
クラシックミュージックの概念が覆る彼らとの出会いは、オレが選んだロックとの違いなぞ出音ぐらいで、プレイヤーのマインドなぞジャンルで違うコトなどないとゆうね。

ロックは野蛮、ヒップホップは下品、演歌はオッサン臭い、みんなテメェの追求する音以外の音楽に対して否定的になるが、クラシックミュージックを教育の一部みたいに思ってるアホな親もたくさんおるのはオレらが受けた学校教育のせいなのか?

一度しか観れんかった彼らのステージだったが、そこにはバイオリンをかき鳴らすロックンローラーがおりました。
2008年から6年続いた最初の DFG は2014でひとまず終わり、ショバを変えて仕切り直しとなる。

たった5メートルほどの移転だが、オレもそしてみんな一人ひとりに最初の DFG に対する想いがあるっつうモノ。

だいぶガランとなった店の最後の通常営業です。
移転作業は既に始めておりました。

日中は内装作業、一旦家に戻りシャワーを浴びて気持ちを切り替え夜の営業に。

徹底して DIY で店を作っていたので、入れ代わり立ち代わり助っ人が現れます。

酒も断って心身が少し健康になった天才バイオリン弾きもちょいちょいやって来ました。
ミュージシャンなんつう人種は往々にしてカスタムとゆう作業が好きなヤツが多い。

取っ掛かりはテメェの機材やね。
クルマ、バイク、手の着けやすいトコから始まって、いずれは内装とか、いくトコまでいくヤツは家丸ごと建てちゃうレベルまでね・・・・
そんなエディの手伝いもあって無事に移転が終了し、新たな DFG の歴史が始まる。

角しかなかったバッキバキに尖ってたパンクバイオリニストもだいぶ丸くなってきたのは10年も見てれば分かるとゆうモノ。
ハンガリーからやって来たミュージシャン達との交流。

しかしねぇ、この頃から少しずつまた酒に手を出し始めてはいたのです・・・・

元に戻らんけば、とは思ってはいたがそれもいずれはムダな願いになるのも分かっていた。
初めて DFG に現れてから10年が経過した2018年、エディの来店回数が800回に到達。

この年に渋谷で大々的に開催した DFG 10周年記念イベントにも足を運んでくれました。

その昔は人のたくさんいるトコには絶対に顔を出さんかった彼からすると劇的な変化だった。

この年の半ばにザルツブルグに永久帰国し、オレがエディと言葉を交わしたのもこの年が最後になってしまった。

ザルツブルグに遊びに行ったニュージーランド人のケリーから聞いたトコ、すっかり昔みたく酒を飲んでる・・・・つうコトでイヤな予感はあったのだが・・・・

それでもたまに舞い込んでくるメールやメッセージがあったうちは良かった。

が、それもいつしか使われなくなっていて近況も分からずだったのがこの2年ほど。

彼との色々をこの一回のブログに押し込むのは到底ムリなのだが、要約するとこんな感じでした。

時には音楽やらその他についてアツく語り合い、時には掴み合いの揉め事になり、時には胸ぐら掴んで外に引きずり出したコトもあったが、翌日は普通に入ってくるんでね・・・・

色んなコトが山積みになった結果、オレとアイツはダチになれたと思う。

彼の最終来店回数は「851回」、間違いなく DFG の歴史の中でもトップ3に入るぐらいめんどくせぇヤツだったが、ガイジンと揉めた時にオレがよう吐いていたセリフも最初はエディに向けた言葉だったのだ。

Do you know how many billion people live in the world?  Do you know the probability that you and I will meet?  That's why, stop fighting and have fun drinking!


R.I.P.Motherfucker!


あの世では酒飲むなよ・・・・








6月1日をもって5113日目の営業に突入した Bar Dr.Feelgood、早い話「丸14年」経ったっちゅうコトや・・・・


5113日とゆうのは2008年6月1日から数えた数字で、ホントのスタートはもっと以前の2007年頃から始まっていた。
更に遡るコト2006年頃、ライブハウスをやらんかね?つう話が舞い降りる。

更に更に遡った2002年、その当時のバンドシーン、音楽シーンに魅力を感じなくなっていた上に、テメェの力量にも限界を感じていたオレは、まぁダラダラとやめ時を見つけられずに音楽活動をしていた・・・・

希望いっぱい、夢いっぱいでシーンの門をくぐった18歳の渡辺少年も33歳を目前にして、ライブをやる意味も、曲を作る意味も見失い、若者から中年への過渡期の真っ只中で新しい夢を模索していたのだったがとにかく一度、バンドから手を退こうとゆう結論に至る。

こっからは早いすよ~、やりかけのレコーディングを中途キャンセル、ラストライブもせずにあっさり活動引退となり、働いていた冷凍トラックの運送屋も ①新しい会社の面接→②採用決定→③会社に口頭で辞意を伝える→④12時間後には退社→⑤翌日から新しい会社に出勤 と、この一連の流れを僅か3日でこなすとゆう早業でテメェの人生をリセットする・・・・
40歳に到達する前にトラックは降りる! こう誓って関東ー関西を月に10~11往復し続け4年ほど経過したある日、ライブハウスを一緒にやらんかね?とゆう話をもらう。

音楽活動からは切れたとはいえ、たかだか4年ほどでは昔の付き合いは切れるモノではない。

ライブハウス専門の施工会社を紹介してもらい、とりあえず作ってもらった見積書を見て30秒後には諦めました・・・・

77,500,000円ガーンガーンガーンガーンガーン

個人で背負うにはあまりにも巨額だ・・・・

ゼロが一桁少なく出来る商売は?

正しい「都落ち」の系譜、バンド始める→そこそこ頑張る→けどロックスターにはなれない→しまった!と思った時にはもう遅い→今さら会社員にもなれず→ならば独立起業→零細個人経営事業主になる→しかもバンドマンにイチバン有りがちな音楽バー とゆうお約束のコースにまんまと乗ってしまうのだ・・・・

かくして2007年初頭、「お前もかよ???」的なバー開店を次なる目標に掲げ、この時点ではいつになるかは分かってもおらんのだが結果的に14ヶ月後に降りる日がやってくる最後の「ワッパ稼業」に今まで以上にあくせく頑張りだすのだ。

ただ何もせずにワッパ稼業だけに精を出してたワケではなく、飲み屋開店に向けての色んな準備も平行して始めたのだった。

飲み屋なんぞ色々分かってしまえば開けるのは楽勝だが、2007年当時のオレはズブのシロウトでそもそも飲み屋なんざ「酒を飲みに行くトコ」で、人を酔わせてカネを稼ぐ トコではなかったのだ。

先ずはドコに出店するか?

住まいのあった三軒茶屋を中心に東西南北の半径3キロ圏内で探すコトを決め、決してない「ヒマな時間」を寝る時間を削ってひねり出し、ターゲットエリアをチェックするタメに手描きでマップを作る。
そのマップを手にテメェで街を歩き回るのだが、この頃のオレは3日運行で関東ー関西を走っており、例えば月曜日に関東を発った場合、次に帰ってくるのは水曜日の朝、夕方にはまた関西に向けて走らなならんので寝てるハズの日中に街を歩いていたのだ・・・・

しかも週末は名古屋ワンクッションの便までつけられ、更に家電業界の強制テレビ買い換え政策の「地デジ対応」型大増産のあおりで、金曜日に昼から関西で積み込みの後に名古屋経由の関東とゆうまぁまぁめんどくさい運行をこなした後に横浜の幸浦(金沢区)に回送、下請けの部品工場から千葉の茂原とゆう房総半島のど真ん中辺りの日立のテレビ工場まで、アクアライン走りたい放題とゆう別にたいしてアガらん路線を日に3往復するとゆう仕事もついて、土曜日の夕方ぐらいまで30時間ぐらい走り続けるとゆうムチャをかまし、やっとこさ終わる頃にはフラッフラだったがそっから帰って来て街を偵察に出るとゆうね・・・・

長年住んでいた三軒茶屋は勝手知ったるエリアだが、その周囲の街のコトはぶっちゃけ何も知らん、とゆうか商売目線で眺めたコトがなかったので、改めてその視点で街を見ると新鮮だったモノです。
店なんてのはどんなにカネかけてゴージャスに造ったところで、人目に止まる場所に開けなければ何の意味もない。

と思ったので、どの通りをどんだけの人が歩いているのか?
飲み屋なんで昼間の通行人なんぞどうでもよい。

暗くなりだす時間から深夜過ぎまでのデータが欲しくて、月に2日あるかないかの関東上がりの休日の夜に調べました・・・・
他にも二つほど候補はあったのだが、最終的にはDr.Feelgoodとゆうネーミングに決定し、グッズ製作なんかを夢見て荷物待ちのトラックの運転席なんかでカリカリと手描きでロゴやら何やらを作ったりしてましたわ。
母方の家系に美術畑の親戚が多く、絵描きやらデザイナーやらを輩出してる家柄だからか? フリーハンドでこんなの作るのはガキの頃から得意ではあったね。

別に美術の道を目指そうなどとは一瞬たりとも考えたコトなどないのだが、テメェの人生を賭けるであろう店ともなれば俄然テンションもアガりますわな!
とにかく色んなパターンを描きまくったねアセアセアセアセアセアセアセアセアセアセ

コレは名刺とメニュー表に採用された。
何枚刷ったかも思い出せないイチバン最初の名刺、持ってるヤツは貴重だぜ?
このメニュー表は沖縄にも持ってきてはいるが、結局 客に見せたコトは一度もないとゆうね・・・・

沖縄では値段も違うのでそもそも使えないが、三軒茶屋時代もコレ見てオーダーしたヤツはおらんと思うけどね。
とにかく描きあげるのに時間がかかったコイツはTシャツ用に決定!
まだパソコンとゆう文明の力を持っていなかったオレは手描きから先の工程が全く分からん状況で、時代が進みまくってて「データで入稿」とか「フォントのリサイズ」とか、いわゆる IT用語がちんぷんかんぷんで何も理解できず、後輩のデザイナーに丸投げしてやってもらっていた・・・・

まぁ今でも分かんねぇんだけどねえーんえーんえーんえーんえーん
とにかく5113日前より更に以前のコトで、決まっていたのは店の名前だけっつうね、ホントにホントの第一歩は2007年の初頭だった、とゆうお話でした。

気が向いたら続きを書きます電球電球電球電球電球