今回のインタビューは、日本画家の芳澤一夫画伯です。

日本画家として、常に、新しい物に挑戦して40年以上。

現在63歳。昨年は、日本画の殿堂ともいえる箱根の成川美術館で、展覧会を3カ月開き、

現在、ますます脂が乗ってきています。その芳澤画伯の、画家としての生の声をお届けします。

“僕は、ずっと、ぶれずにきています。「絵描き」ですと言っても嘘ではないくらいに、やってきています。

 

実は、絵を画く、絵描きになるということを、小学校の卒業文集に書いているんですよ。その後、芸大受験したが合格はしませんでした。浪人時代は、解体業とか、色々なアルバイトもしていたのですが、東京では何とか生活できてしまうのです。それで、こんなことをしていてはダメだと思って、育った小田原に戻り、独学で学びながらコンクールへ出展するようになりました。入選落選を繰り返しているうちに、働きながら、28歳で結婚。29歳で、デザイン会社に入社しました。絵描きだけでは、食っていけないので、それなりの覚悟でした。

 

幸い、デザイン会社では、色々任せてもらえるようになり、地位も給料も上がったのです。しかし、仕事で、時間が拘束されるのが、きつかったです。仕事が終わってから、自宅に帰宅するのが、深夜になることも良くありました。その時間から、コンクールに出す作品や大作を描いていました。周りの人から、「いつ描いているんだ?」と、しばしば聞かれました。今、考えても、自分は、それくらい描いていたのだと思います。

 

四十年程前に、公募展に出品した作品の麻布をコラージュしてできた作品は、2017年に「希望の木」として成川美術館の展覧会に出品された。随分と長い時の経過が懐かしくもあり、新しい作品に生まれ変わったことに感動している自分がいる。と書かれている。

  

コンクールに初めて入選したのが24歳の時。嬉しかったですね。最初から、賞を獲るつもりでしたから。画いた作品を写真で撮り納めておくのに、カメラを、すぐに買いにいったりしたのです。

 

どうして、それができたのかは、まず、周りの人に恵まれていたこと。そして、自分の中で、絵描きになるという意志は、全然ぶれていなかったことです。絵が描けないなら、働いている意味は無いというので、会社には、2回辞表を出しました。会社は、「自由にやっていいから、働いていてくれ。」と言ってくれたのです。もちろん、すぐに、状況が変わることはありませんでしたが、30歳を過ぎてから、「芳澤というのは、頑張っているんだな」と、家族、親戚、友人、会社も分かってくれるようになりました。

(朱鷺というこの作品は、シンガーソングライターの、さだまさしさんの「にっぽん」のジャケットに使われた。) 

 

僕は、東京芸大の試験は、4回受けて合格しませんでした。東京芸大というのは、34浪は当たり前というところですけれど。21歳の頃から、油彩から日本画に転向したのです。そうすると、油は木炭でデッサンしてきたのが、日本画は鉛筆でデッサンするので、その差があって無理かなと思い、芸大を諦めました。それに、自分では、デッサン力は、誰にも負けないと思っていましたが、周りの人間で、明らかに自分よりデッサン力が弱いと思った人間が合格をしていく中で、芸大に入る目標を失ったんです。

 

当時、油彩を卒業するのが40人いたとして、みんなが芸術家になるわけではないのです。絵描きとしてプロで食っている人は、まずいないです。もちろん、学校の先生や絵画教室の先生を含めれば、それなりにいることはいます。自分は、第一線で活躍しているとは、まだまだ言えませんが、「絵描き」ですと言っても嘘ではないくらいに、やってきています。

 

 

 

芸術家としての信念‐宿業

 

どんな職業であれ、それが、芸術家と呼ばれるような人であれ、数学者であれ、山中さんのようなノーベル賞を取るような科学者であれ、自分のやっていることがお金になるとかならないとかということは、考えていないと思います。そこには、使命感というか、宿業、運命みたいなものがあるのです。その使命感みたいなものがある人が、他の人にはできないことをやるんです。経済環境、家族の反対など、障害は色々とあるけれど、そこでやめてしまう人はそれまでの人間。何があっても、やる人はやる。





芳澤画伯の好きな文字誕生という言葉。この三部作は、文字誕生と名付けられている。20173月の成川美術館で開かれた展覧会で発表された。 

 

自分は、そういう意味で、先ほども言いましたが、ぶれなかった。絵描きになるという意志を捨てたことはないです。だから、「無理かな、諦めよう」と思ったことは一度もない。さすがに、この年になると、ふと、自分には才能が無いのかなと思うことはあります。偉そうなことを言うようですが、絵描きとは、かくあるべきという価値観が既に確立しているのです。レオナルド ダ・ヴィンチの最後の晩餐のレベルを自分があるべき姿だと思っているから、「自分には無理かな?」と考えるのです。こんなことを若い時から、言っているから、芳澤は、大風呂敷を広げると言われるのですね。ただ、こういう絵を描きたいという希望はあります。そこについては、ぶれていないのです。

出世したいとか、現実世界で競争したいという希望ではなく、「こういう生き方をしたい、こういう絵を画きたい!」という希望はあるのです。それに向かって一所懸命やっているのですが、「無理かもしれないな」という絶望に、時々、襲われます。

レオナルド ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」画伯が、自分のあるべき姿という。画像は、WIKIPEDIAからお借りしました。

 

“パン画と芸術家との差とは、、、

 

パン画という言葉があります。売るために画く。食べるために画く。侮蔑的な言葉です。職業画家の事ですが、大先生方はバカにします。僕もそう思っていました。でも、みんなパン画じゃないかとも、思っています。例えば、ゴッホだと、弟のテオドルスが画商で、売るために描いてはいたけれど、目的は売ることが100%ではなかった。売りたいけれど、それに合わせて描いていたわけではない。売ることに合わせて描いている人を、パン画ということになるものです。純粋に、自分の芸術性を求めて、こういう絵を描きたいということを目指しているのが、本当の芸術家だと思います。僕が憧れているのはそこなんです。

 

“絵を描くときは、どのように始めるのですか?”

 

これは、難しい。自分の中に自然に存在している“描きたい”という何かがあるのです。それは、何を描くという具体性を持ったものではなく、もっと自然なもの、わけの分からない何かを、常に自分の世界を探しているのです。そのために生まれてきた。その探す行為を毎日しているのです。

 

春の成川美術館の展覧会では、ある程度、方向性が出せてきたと思います。テーマは、具象と抽象でした。全て、全力で描いたものですが、その中で、自分で主張することができた一つが、“四季”の連作です。出来上がってみると、ヴィバルディの“四季”のようなものが創りたかったと気づきました。その時に出した画集の本の中にもありますが、知らないうちに、心のうちに沈殿しているものが出てくるような感じです。

上の画像は、成川美術館で撮られた写真。この四季について、泉屋博古鑑の分鑑長の野地耕一郎氏は、<四季>と題された連作は、銀箔の下に刷り込まれた岩絵具の色彩が、削り落とされた鋭く錯綜する線の下から顕現する画面によって成り立っている。しばらく見つめているうちに、~~とても魅力的な作品たちだ。画面にあらわれているのは、集積した色彩の線なのだが、その描線の調子の美しいリズム、そのリズムを増幅する銀箔による空間のざわめきのようなもの、といえるかもしれない。その空間は、ビジュアル的なものというより、まず触覚的なものとして認知されるだろう。と評している。(絵の本に寄稿された野地氏の批評) この画像では、それを伝えることができないのが残念です。

 

例えば、「紅葉が綺麗だな」と思い、それを絵にしてみようと思ったとすると、自分の中にもともと希望や憧れみたいなものがある。それを見た時に、たまたまインスピレーションが湧く。それをよく、「降りてくる」と言う人もいる。しかし、そういう神がかり的なことではない。だから、芳澤一夫の画きたいものは何だと聞かれても、言葉にすると理解できないのではないでしょうか。ただ、ひとつ言えることは、その作品には生命感がなければならないということです。これが大事です。

 

「花は希望、希望は人生の花」というのは、私のテーマである。芳澤画伯は、2017年3月に成川美術館で発表された「花三連作」の横にそう記している。更に、「私自身の心の中にいつも咲いていて欲しい花たちがいる。」と記している。 

 

“子供をライブの音楽会や生の展覧会に連れていきなさい。”

 

絵には、生命感がなければいけないと言いましたが、それでは生命感というのは何なのか。子供は絵を見てストレートに感じる。分かりやすく言うと、子供が見て感動してくれるような絵を描きたいと思うのです。個人的には、ピカソは嫌いだけれど、ピカソもそれを目指していると思う。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、老若男女問わず誰がみても感動するものです。ローマ法王だけでのものではないです。芸術作品とはそういうものです。

 

音楽でもそうです。「クラシックの音楽会に、子供は連れていってはいけない、まだ早い」などという大人がいますが、一番、音楽を理解できないのは、頭脳が出来上がっている大人なんです。子供の頭脳には、ストレートに浸み込んでいく。だから、子供は、「わぁ、きれい」「わぁ、楽しい」「わぁ、可愛い」という表現を良くしますよね。それが、大人は、「これは何をお描きになっているの?」「これは、どのくらいの時間かけて描いたのですか?」、もっとひどいのは、「これは、幾らぐらいするの?」

 

一つの絵から感じるものが、大人と子供では違うのです。だから、子供に、良いと思われる絵は本物です。それだからこそ、子供には、ライブのクラシックや、生の展覧会を連れて行くべきなんです。良い物を、若い頭脳に浸み込ませるのです。

 

芳澤画伯の絵には、ファンタジーやメルヘンを感じるものが多い。そして、絵そのものが、子供にも分かるものが多い。それでいて、日本画の技法でそれを描いている。それが、日本画家芳澤一夫の特徴である。

 

前編はここまでです。後編では、日本画と洋画の技法的な差、画材、紙の選び方を通して、画伯に画家としての思いを語ってもらいました。

後編は、1月10日にリリースします。

 

右矢印後編はこちらよりお読みいただけます。