大竹和紙の担い手、大石雅子(おおいし のりこ)さんのインタビュー、今回は後編です。 

>>前編はこちらよりお読みいただけます。

 

 

和紙で鯉のぼりを作る

「和紙の鯉のぼりは風を切るときの音に迫力があり、威勢が良くバザッバサッと豪快な音が冴えます。男の子の健やかな成長を願うのにふさわしく、布の鯉のぼりでは味わえない趣きがあります。」

「昔は5メートルぐらいの、大きい鯉が主流でしたが、時代と共に、段々と小さくなってきました。
今は、1メートル50センチ、1メートル20センチ、そして90センチも作っています。

ただ、小さくするのは、90センチが限界です。それ以下だと、私がもう絵が描けないです。

和紙だから、色付けをする時に、黒や赤が滲んでしまって。

目の渕に赤い金太郎を画いていると、滲んで、まるで目が充血したみたいになってしまいます。」

 

絵付け前(左)と絵付け後(右) 

 

 

広島で被爆

「1945年8月6日、爆心地から2.9キロ離れた中学校で被爆しました。その時に、母を失いました。

私が助かったのは、市内に奉仕活動に行くのを、空襲を予感した校長先生が、生徒たちを学校に引き留めたからです。

戦後は、看護学校に入って、それから結婚した婚家が和紙問屋でした。

倒壊した家から脱出しようともがいたが果たせず、手を胸の前で合わせて迫る炎を待って

焼け死んだ母の苦しみを思えば、今の私は本当に幸せです。」

鯉のぼりの絵付けの様子

 

和紙の今後の方向を伺ってみました

「大変、残念だけれど、手漉き和紙は、時代に取り残されていったなと思います。

実用的な物としては残っていくことはできないかなと思います。

でも、私は、こういう良い物があったなというものを残していきたいと思っています。」

「広島県和紙協会」の看板の前で

 

インタビューアーの一言

「大竹和紙と大石さんのことを知ったのは、インターネットで大竹和紙を検索した時である。

九月上旬の大雨の降る日に、大石さんの自宅兼工房を伺った。85歳になられているという大石さんは、

実に、元気でしっかりとしておられる。その大石さんが、大竹和紙を加工して、鯉のぼりを製作をしておられる、

たった一人の方だと伺うと、寂しいを通り越して、果たしてこれで良いのだろうかと思ってしまう。」

 

「大石さんは、広島県の「地域文化の功労者賞」や、文化庁から「地域文化功労者(文化財保護)」を表彰されている。

又、2000年には、国際ソロプチミスト(人権と女性を目的に活動する、国連協議資格を持つNGO)から、

「女性栄誉賞」も受賞されている。

これからは(も)、この大竹和紙で鯉のぼりを製作する技術を後世に残していくという

大きな課題を背負っていらっしゃる気がする。」

文化庁「地域文化功労者」表彰状

 

「幸い、大竹市だけではなく、広島県の各地から、ボランティアの方々のサポートを受けておられ、

鯉のぼりについても、6年間、大石さんが教えている方がいるという。伝統や文化というのは、

一回、その火が消えてしまったら、それを復活させることは至難の業となる。この地球上から、

そういう風に消えてしまった文化や伝統は限りなくあるのではないだろうか。

だからこそ、向こう何年もかけて、広島県、大竹市には、全力を挙げてもらいたい。

又、広島といえば、広島カープ。まさに鯉。大石さんの鯉のぼりを絶やしてしまったら、

広島カープも寂しいことに。カープ経営陣も、この大竹和紙の存続にてこ入れしてくれたらと思う。

地域の産業を保護していくには、それなりのスポンサーが必要なのではないだろうか?

何百年も続いた産業や文化を、現代の経済に取り残されたからということで終わらせてはいけないと思う。

和紙の生産の技術は、携帯電話にも使われているという。そういう可能性も他にあるのではないだろうか。」
 

 

又、これは、単に、大竹和紙のことだけではなく、日本各地の和紙の生産地に共通する問題である。

ユネスコの無形遺産に選ばれた三か所が残れば良いというものではない。

和紙製作という6世紀から続いた文化と産業を21世紀の私たちの時代に終わらせてはいけないと、強く強く感じた。

[ 大石さんのインタビューは今回で終了です。お読みいただき、ありがとうございました! ]