今回の話題は、平安京のトイレです。

 

前回紹介した、高橋昌明著 【京都〈千年の都〉の歴史】によれば、

平安京の、貴族のトイレは外に流れている道路側溝の水を、邸内の築地内側に木桶で引き込み、

邸内で生じた汚水を混ぜて、道路側溝に流していたらしい。そして、その木桶に

人間の排泄が行われていた。要するに、水洗式だったとのこと。

ただ、道路側溝の水自体は、その他の塵芥が一緒になって流されていたので、

汚臭はひどいものだったらしい。

(現代京都御苑の外には、暗渠になった側溝がある。烏丸通り)

 

高貴な人間は、邸内の樋殿というところで、オマルのようなものに、大小をして、

家人がそれを洗って、木桶で流していたらしい。

(確かに京都御所の周りには側溝がある。)

 

 

もしかして、そのような臭いから遠ざけるために、

寝殿造りのような建築様式が生まれたのだろうか。

 

一般の人間は、道路がトイレという状態だったとのこと。

だから、洪水などが起こると大変だったらしい。

それだからこそ、道路が広げていたのだろうか?

 

12世紀後半(平安時代末期)成立の「餓鬼草紙」絵巻には、

街頭排便の絵が残っており、尻を拭くのには、紙と捨木が使われていたとのこと。

なお、餓鬼草紙絵巻は、東京国立博物館と京都国立博物館にあります。

この画像は、「チェコ好きの日記」さんからお借りしました。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/04/01/111254

 

 

それより、気になるのは、

紙が、既に使われていた!!

 

昭和30年代には、東京大田区の我が家のトイレの拭く紙は新聞紙であった記憶がある。

それが硬いちり紙に代わり、いつしか、柔らかいトイレットペーパーに代わっていった。

街頭には、汚わいの桶が東京でも、いたる所に置いてあった。

それが、いつしかバキュームカーで汲み取られるようになり、

いつしか、下水道に流されるようになっていった。

都市というものは、衛生的なものを求めて歴史の中で進化してきた。

 

源氏物語な中の妖艶な恋愛も、詩歌を返すような文化の傍に、

当たり前のことだが、このような人間の生理的なものが同居していたと思うと不思議でならない。

詩歌を書いた紙と、街頭で尻を拭くのに使われていた紙も、紙という意味では同じ。

もちろん、品質には、差があったのだろうが。