ベートーヴェンが小樽
僕にとって、ベートーヴェンは小樽である。
なんのこっちゃ。
僕がクラシック音楽を聴き始めたのは大学生の頃で、当時は小樽に下宿していた。
クラシック聴き始め、初々しい初心者だったあの当時は、ベートーヴェンのシンフォニーとピアノソナタを聴きまくっていた。(もちろん今だって初心者だが)
聴く場所も時間も問わなかった。
下宿の部屋でも、飲み会帰りの夜の町でも、大学の講義中、、、、、にはさすがに聴いていなかったと思う、な。
そのベートーヴェン漬の日々のおかげで、東京にきた今でも、ベートーヴェンを聴くと小樽の風景を思い出すということ。
その中でも、特にきついのがカラヤンの5番。
こいつを聴くと、雪の小樽が強烈に思い返されてしまう。
雪の間から覗くアスファルトから、あの道を通る車の流れまで思い出してしまう。
なぜか。
僕にとっては、カラヤンの振るベートーヴェンがクラシック音楽との初めての対峙であった。
僕は、彼のキラキラした音楽を聴き、その圧倒的な存在感や、終楽章に向かう高揚感に、すっかり魅了されてしまっていたのだ。
例えるのであれば、何も知らないうぶな女子高生が、見た目もド派手で「とってもお上手」な、チャラ男にハマってしまったようなものだろうか。
(彼女は後に、世界にはもっと多くの種類の男性がいることを知る。)
そんなわけで、カラヤンのべと5というのは僕にとって初めての西洋音楽体験として、出会った場所・小樽のイメージとともに、深く記憶に根ざしたものになっているというわけ。
とまぁ、仕事に向かう自分を奮い立たせるために、ベートーヴェンを聴いていたら、そんなセンチなことを思ってしまったのです。
iPhoneからの投稿
なんのこっちゃ。
僕がクラシック音楽を聴き始めたのは大学生の頃で、当時は小樽に下宿していた。
クラシック聴き始め、初々しい初心者だったあの当時は、ベートーヴェンのシンフォニーとピアノソナタを聴きまくっていた。(もちろん今だって初心者だが)
聴く場所も時間も問わなかった。
下宿の部屋でも、飲み会帰りの夜の町でも、大学の講義中、、、、、にはさすがに聴いていなかったと思う、な。
そのベートーヴェン漬の日々のおかげで、東京にきた今でも、ベートーヴェンを聴くと小樽の風景を思い出すということ。
その中でも、特にきついのがカラヤンの5番。
こいつを聴くと、雪の小樽が強烈に思い返されてしまう。
雪の間から覗くアスファルトから、あの道を通る車の流れまで思い出してしまう。
なぜか。
僕にとっては、カラヤンの振るベートーヴェンがクラシック音楽との初めての対峙であった。
僕は、彼のキラキラした音楽を聴き、その圧倒的な存在感や、終楽章に向かう高揚感に、すっかり魅了されてしまっていたのだ。
例えるのであれば、何も知らないうぶな女子高生が、見た目もド派手で「とってもお上手」な、チャラ男にハマってしまったようなものだろうか。
(彼女は後に、世界にはもっと多くの種類の男性がいることを知る。)
そんなわけで、カラヤンのべと5というのは僕にとって初めての西洋音楽体験として、出会った場所・小樽のイメージとともに、深く記憶に根ざしたものになっているというわけ。
とまぁ、仕事に向かう自分を奮い立たせるために、ベートーヴェンを聴いていたら、そんなセンチなことを思ってしまったのです。
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ことはじめ -日々想うことを綴っていくために-
"Publish or perish"
「発表するか腐らせるか。」
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**沈殿の話**
私には、日々の生活の中で考える・想うことがあります。
日々の生活とは、具体的に言うと、例えば、以下のようなことが挙げられます。
・仕事をするとき。
・人と触れ合うとき。 (他愛もないおしゃべり、酒の席、出会い…)
・学ぶとき。 (勉強、セミナー、日々の反省…)
・芸術に触れるとき。 (コンサート、美術館…)
・音楽を聴くとき。 (クラシック音楽、現代音楽、ポップ・ロック…)
・書籍を読むとき。 (小説、新書、ハウツー、自己啓発、図鑑…)
・世界の出来事を知るとき。 (ニュース、新聞…)
・食べるとき。
・夢を見るとき。
・自分の内面を見るとき。
・何も考えていないとき。
そういう時に考える・想う、多くのことたちは、私の中で、沈殿し、発酵し、今の私を形作っています。
しかしそれらは、多くの場合、個別のものとして明確な、形や境界線を持たず、透明で稀薄でものとして、私の奥底に積もってゆきます。
つまり、時間が経過すればするほど、“あの時想ったこと”を個別に取り出し、眺めることが大変難しくなってしまいます。
きっとそのこと自体は何の不便もないことでしょう。
先に述べた、“日々の生活”に、その時の考えを眺め返すという行為がなくとも、時間が進むにつれて、私の中に沈殿する、日々の想が、私の輪郭を(望む/望まないにかかわらず)形作っていきます。
**影響の話**
話は変わりますが、私は、人と話をすることが好きです。
私が、自分の知識や、その時その時に考えていることを話し、相手に耳を傾けてもらう。
あるいは、相手が、自分の知識や、その時その時に考えていることを話し、私は耳を傾ける。
そういった活動の中で、私の知識は広がり、思考は影響を受けます。
その微妙な力により、私の人生の向かう先は、わずかづつ、もしくは“かなり大きく”変化しています。
そのことはつまり、(確認をしているわけではないのですが)、同時に相手の考えにも影響を与え、相手の人生の角度をわずかながらでも変えているかもしれないということなります。
**理由の話**
私は、私の考えを、言葉にすることで、形あるものにしたいと思っています。
思考という、時間の流れに消えてしまうものを、明確な境界線を持つ、限定された表現、つまり“言語”に残す。
それにより、もはや“他人”となった、過去の自分の思考を、現在から眺めることができる。
その“思考”自体は間違いなく、言葉ではない、透明な存在として、現在の自分の中に沈殿されているものです。
しかし、それを明確な輪郭を伴った“他者”として見た時、それは、過去の自分との対話となる。
私は、明確な形を伴う言語=“他者”として、固定された思考が、現在の私の思考に影響を及ぼすことを期待しています。
例えばそれは、小さな懐かしみの感情を生むかもしれない。
もしかしたら、深刻な反省を促すかもしれない。
そういうことを期待しています。
さらに、言語化した思考を、広く読まれる場所に置きたいと思っています。
言語により輪郭を持った、もはや私の中から分離された思考は、誰かに影響を与えるかもしれない。
そのことは、思考の言語化と同時に、私の思考、それ自体が洗練されることを強要します。
そして私自身も、その効果を期待しています。
これから試みようとしている、「思考の言語化」がどんな形になっていくのか。
この行為や、現象が、自分にどんな影響を与えるのか、確からしいことは言えないけれども。
この文章をことはじめとして。
