昨日の続き。
これは4月3日の気仙沼市鹿折地区の風景です。
鹿折唐桑駅前に大きな漁船がポンっと置かれたように打ち上げられていて、津波の力の大きさは計り知れないのだと思い知らされます。
震災から20日以上経っても、火事で燃えた匂い、重油の匂い、なんだかわからない薬品のような匂い、魚介類の腐敗臭が、混ぜこぜになって漂っていました。
まるで爆撃を受けた後のような見渡す限りの瓦礫の中を歩いているうちに、頭が痛くなってきました。
自衛隊の車両とダンプカーだけが時々見かけられるくらいで、地元の人たちの姿はほとんど見かけませんでした。ゴーストタウンそのものでした。
傾いた家の軒先には、洗濯物があの日からぶら下がったままになっていて、あの日のあの時まで、そこに人間の生活の営みがったのだと、改めて感じられました。
4月7日なって、私はようやく気仙沼から南三陸町に行くことができました。
3.11の当日は、志津川(南三陸町)の病院や警察署の屋上まで津波が来たという噂のような情報が入ってきて、志津川はどうなってしまったのか?全滅なんじゃないか?何人が犠牲になってしまったのか?不安だらけでした。
でも、電気もなく通信手段もなく、被災地の真っただ中はまったくの情報遮断状態でしたから、本当のことを確かめることすらできない状況でした。
南三陸町へ向かう途中の町々も、集落も、根こそぎなくなっていました。こんな所まで津波が来たのかと思うくらい、内陸の沢沿いに瓦礫が大量に溜まっていました。車で通過するたびに、驚きと消失感となんだかわからない感情が押し寄せてきていました。
志津川の街も、そこにどんな街があったのか思い出せないほどの壊滅状態でした。夢か現か・・・・。
マスメディアで有名になった防災庁舎の鉄骨だけが、ポツンと残っていました。「あ~」とか「え~」とか、そんな言葉にならない言葉しか出てこない現実が、目の前にありました。
ここに住んでいた古くからの友人や知人が今はどうなっているのか、それすら確かめる術がない状況でした。
電気がない被災地の夜空には、星々がきれいに輝いていたのを思い出します。