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同慶寺のブログ

奥州相馬(福島県南相馬市小高区、原発から17㎞)小高山同慶寺
避難している皆様の情報交換の場所になればと思います。
















同慶寺 仲禅寺報  
平成二十四年四月二十七日発行 震災瓦版第5号 



おもいやり、ひとつになる 



 百花繚乱の好時節、みなさまお変わりありませんでしょうか?いつも菩提寺の護持にお力添えをいただきまして、ありがとうございます。心より感謝申し上げます。



 みなさま既にご存じの通り、いよいよ今月十六日に小高の警戒区域が再編成(見直し)になり、同慶寺は立ち入り制限が解除になりました。しかし、そうは申しましても、両手を挙げて喜べるわけではなく、上下水道は使用できず、居住も認められていません。水道が不通となると水がないので火を焚くことも許されず、刈り取った草や落ち葉も寄せておくしかありません。また防犯面では、誰でも入れるようになったため他県ナンバーの車もちらほら見え、各県から応援の警官が巡回を強化し、更に地域見守りパトロール隊が結成され警戒にあたっている状態です。それでも、この一年のように立ち入りのための申請をしなくてもよくなった分、小高がぐっと近くなりました。この一年は、近くにいても遠くに感じる故郷でしたので…。



 さて、ここからですね。ありきたりの言葉かもしれませんが、「大変ですが力を合わせて頑張っていきましょう」。事態は長期化し、大概のことがしっかり見えてくるまでにも五年ぐらいはかかりそうです。道のりは長くても、故郷を取り戻していくために、エネルギー問題や原発問題、さらには環境問題をバネにして、逆に素晴らしい世界をつくっていくために、私に出来ることは精一杯勤めさせていただく覚悟でおります。



つらい時程、声を出す



 

学生時代、野球を通して学んだことです。武道をしていた仲間も同じ事を言っていました。農作業でも同じだと思います。大変なときほど声を出し、時には歌い、踊り、祈りにかえて乗り越えてきました。そして気づいたのは結果よりも過程に多くの学びがあること。



 ここから大切なことは、みんなが一つになって力を合わせ、各々が自分の得意とするところで力を発揮し、社会全体を支え合うことだと思います。



人間は慣れてくると不平不満が出てきます。一時は命があるだけでありがたい、雨風がしのげる家や食べ物、温かな布団があるだけでありがたい…と思っていた。それが一年経って、そして先の見通しがつかない生活に心身ともに疲れてくると尚更、周囲の人々の欠点に過剰反応してしまう。それはとてもよくあることで、先人たちも、より良い心のあり方を目指す上での注意点として諭しておられます。



 



 私たちは各々の考え方の違いや生活の違いを認め合い、許し合い、そしてそれを乗り越えていくことが大切だと思います。例えば避難をしている人でも、相馬に留まる人も、故郷を想い、愛しみ、なんとかしたいと必死であることには変わりありません。それぞれの役割と働きがあります。しかし大きなところで想いは一つのはずです。他人を批判することは簡単です、もちろん深い信頼関係の元、とことんまで想いを語り合い衝突することは大切です。しかし浅い批判は別物、それは分裂や分断、破壊を伴うことはあっても、何も生まれません。大切なのは自分の役割を知ることだと思います。



 自分の役割とは「自分には何が出来るか」「自分の得意なこと」「人の役に立てること」そしてそれをすることによって「心身ともに楽しく、気持ちいい」と思えることをしてゆくことだと思います。そして願わくは、「周囲の予測を上回る好仕事を」して、陰徳を積み、良縁をひろげて生きましょう。どうぞよろしゅう。



 



お寺の清掃ボランティア 結いしましょう



 5月1日(火)、2日(水)
   8日(火)、9日(水)



   午前9時~(御免弁当持参)



清掃に使う道具は、ゴム手袋、ホーク、てみ、もっこなどあれば各自ご持参ください。(竹ほうきはあります) 本堂内も人手があるとありがたいです。



 6月以降は、毎月1日と15日の毎月2回程度開催していく予定です。



無理のないところでご協力ください。(住職も法事が重なるなどで行けないときもあります)
H24.04.27




寺報 震災瓦版4号 が届いたようです。
みなさまからたくさんのお礼の連絡を受けています。

その中から紹介します。
この方は震災前からご主人の看護をしておりました。
そのご主人は昨年夏に他界。大変な中、家族は立派に看取られました。
避難によって命を縮められたといっても過言ではないでしょう。
今は、南相馬市の仮設住宅に移り、生活の再建を計られています。



新しき 命誕生
国栄え
心なごむる この一報に
(私めの三女誕生の報告に際しての一句)
あいちゃん


四畳でも 親子三人
生きて行く
食卓囲む 笑いが栄養

いつも励ましの声をありがとうございます。合掌


大震災の一周忌が無事に終わり、ひとつの節目を迎えました。
ゆっくりとですが、新たな一歩、そして確かな一歩にしてゆきましょう。

 この一年、私たちは多くの方々から物心両面の支援をいただきました。
心から感謝を申し上げます。みなさまの温かな心にふれることは、私にはとても感動的でした。そして「私たち人間もまだまだ捨てたものじゃない。絶対に大丈夫。」と心から思いました。

 現在の私は、福島の南相馬市を中心に全国各地に離散した檀信徒のみなさまからの要請に応えながら、お陰様でなんとか踏ん張っております。
「原発さえなければ…」多くの福島県人の気持ちは同じです。
 一年を振り返って思うことは、
①「真実は隠されている」

②今が一番大事な大転換期であり、私たち人間はこれ以上、環境を傷つけない、化石燃料に頼らない、という道を選び歩いていかなくては「未来がない」ということ。

③「自然エネルギーでやっていくだけの技術はすでにあり、しかも日本の技術が世界一」だという誇らしい事実。そして、それが「未来へ続く道」であるということ。
 
④福島では実に多くの若者が、主婦が、そして医師や教職者が、危機的現状を嘆き、愛と勇気を持って行動し始めました。動けば変わります。この島国によき風が吹きますように…。
 
 「変化を望むのなら、まずあなた自身がその一部でありなさい」M・ガンジー

ありがとうございました。
すべての生きものたちよ、幸せであれ、幸せであれ。
  

カリフォルニア福島フレンドシップコンサート


2012.3.3 Sat   福島市
福島市、浪江町仮設住宅 13:00

フォレストノート ;
ブルース・ヒューバナー(尺八)
あるまんど(ギター、チャランゴ)



2012.3.4 Sun   南相馬市
南相馬市、生涯学習センター 14:00


フォレストノート ;
ブルース・ヒューバナー(尺八)
あるまんど(ギター、チャランゴ)


2012.3.5 Mon   川内村
川内村、土志工房 18:00~


フォレストノート ;
ブルース・ヒューバナー(尺八)
あるまんど(ギター、チャランゴ)
★お檀家さん、広めてください★

3月11日に鎮魂供養会を考えています。
場所は南相馬地原町区上太田 岩屋寺にて
午後2時46分に大梵鐘打ち出しです。

どうぞよろしくお願いいたします。

感謝 合掌

ネイティブ・アメリカン・スピリット 教えのお話(その1)

あなたは二匹のオオカミを飼っている

ひとりのチェロキーの年寄りが、孫たちを集めて、人生について、つぎのように教えた。

人間の心のなかには、オオカミが二匹、すみついている。

その二匹のオオカミが、このわしのなかでも、つねに悲惨な闘いを、くりひろげているのだ。

一匹は、悪いオオカミでな。それは、恐れであり、怒りであり、ねたみであり、嘆きであり、後悔であり、強欲であり、ごう慢であり、自己憐憫であり、あやまちであり、敵意であり、劣等感であり、嘘であり、うぬぼれであり、自尊心であり、競争心であり、優劣感であり、そしてエゴのことだ。

で、もう一匹の方は、よいオオカミで、それは、よろこびであり、平和であり、愛であり、希望であり、分けあいであり、おだやかさであり、謙遜であり、優しさであり、思いやりであり、慈悲の心であり、友情であり、共感であり、寛大で広い心であり、真理であり、哀れみであり、そして信頼だ。

わしのなかでこの二匹のオオカミがたえず争いあっているように、
おまえたちのなかでも、おなじ二匹のオオカミの闘いが起きている。
それはまた、すべての人たちの心のなかでも起こっていることなんだ。

孫たちはしばし黙ったまま、言葉の意味を考えていた。
やがて子供のひとりが曾祖父にたずねた。

「で、どちらのオオカミが勝つのですか?」




老人はこたえた。

それはおまえが餌を与えるオオカミの方さ」


北山耕平著『大事なことはインディアンに学べ』より



現実としっかり向き合うこと。


まずはそかこら。











でも、やるぞ!

やるしかないぞ。


そこが大事! 





貼り付けた文章なので下↓の方からになります


↓     ↓    もう少し下からです

 
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  宗教法人 同慶寺
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 2011311日、午後246分、私は台所で間もなく3才になる二女を左腕に抱きながら地震に耐えていました。激しくそして長い揺れに、思わず東司(トイレ)に駆け込んで崩れる家から必死で娘を守っていました。    



 大きな余震が続く中、家の中にいることもできずに外に出てみると、変わり果てた境内の様子。本堂内外の土壁、瓦は落ち、灯籠、文化財指定の藩侯墓所(五輪塔)29基もほぼ全損壊。門前に住むみなさんは?と思い隣近所を見て歩きました。道路はいたる所にひびが入り陥没や液状化現象、塀や家屋の倒壊も多く、揺れの激しさを物語っておりました。



 地震直後、ラジオと防災無線で大津波警報が発令されたことを知りました。私の家は海岸線からおよそ4㎞、海抜10メートルは超えているので大丈夫とは思いましたが、初めて聞いた「津波警報」と「予測される波の高さは7メートル以上」という言葉に、大急ぎで家族を集め山間部に避難をいたしました。



 避難すること1時間あまり。津波到達予定時刻も大幅に過ぎたので寺に戻ってみました。相変わらず大きな余震は続いておりましたが寺は無事でした。そして、私はその晩通夜の予定が入っていましたので、できる状況ではないだろうとは思いながらも斎場に向かいました。途中の高台に登ると海岸から2㎞の所にある葬祭場は1階部分が水につかっていました。

小高の陸橋の上から津波を見る



 それから間もなくして携帯電話でも使える情報ツール「ツイッター」で情報を集め始めました。私のツィッター歴は一年ぐらい、その中で「福島第一原発、冷却装置が津波により壊滅。予備のディーゼル発電装置も流出」というツイートに目が釘付けになりました。私は、昨年8月、福島第一原発3号機で、プルサーマルを実施するにあたり有志の方が開かれた中止を呼びかける講演会で、アメリカの現状として原発と使用済み燃料プールの老朽化による汚染水の漏水リスク、そして冷却装置の重要性と万が一停電などの電源消失で冷却不能な状態になるとどうなるか?ということを学習する機会に恵まれておりました。ですから冷却装置の壊滅というのがどれほど危機的状態であることがすぐに理解できました。



 講演会では冷却不能な場合、明暗はその後の24時間で決まりますと教わりました。高温の燃料を冷却するための水の循環ができないと、冷却水はやがて沸騰し、蒸発。そのままであれば燃料が露出して、核分裂の暴走。そして爆発という最悪のシナリオまで学んでいました。



vertical-align:baseline"> そんなことが頭を横切り、地域の方に説明をしましたが、いつもの調子…。    



vertical-align:baseline">「原発は絶対大丈夫だ」と言われるばかりで…。



vertical-align:baseline"> 



 私は母と妻、それに7才、5才、3才になる子どもの6人家族です。もちろん地域の檀信徒の皆様のことも大切ですが、その前に一人の人間であり、地球を愛するただのヒトです。そして親です。子どもの命を一番に考えました。爆発してからでは遅すぎる。そして交通渋滞などを考えると、ゆっくりしてはいられない。極まりました…。



しかしこんな時だからこそ冷静に…と努めました。そしてやはり子供たちを守ろうと、一時間で用意して避難することを決めました。この時、母は寺に残ること選択しました。家族が引き裂かれ、地域が引き裂かれる…言葉にはとうてい表しきれない、切なさと寂しさと悲しさ、そして「だからあんなに反対したのに…」という悔しさがありました。



 



 寺を出発したのは午後6時半頃だと思います。自動車の燃料が空に近かったので、すぐにガソリンを満タンにしました。(この時点ではガソリン不足は予想していませんでした)向かった先は山を越えた福島市でした。福島市は原発から5,60㎞離れているでしょうか?約2時間かけて何とか到着。福島市もすごい渋滞でした。適当な駐車場に車を止めて子供たちは後部座席を倒して寝かせました。私は朝までツイッターで情報収集、雪の降る寒い夜でした。



 しかし、事態はいっこうに好転しませんでした。それどころか悪くなるばかり。ツイッターでは、私がフォローしている仲間たちが表にはなかなか出てこない情報をツイートしてくれていました。そのなかに、東電が予測したタイムライン(原子炉崩壊の予測時間)がありました。それによると二号機が午後11時過ぎには圧力容器の崩壊、(メルトダウン)とありました。アメリカから冷却のための支援ヘリ出動の申し入れがあったが、重金属冷却のため原子炉を廃炉にしたくない人たちが圧力を掛けて、結果として総理大臣は冷却の支援ヘリを断るなど、状況は深刻でした。



 12日早朝、空がうっすら明るくなる頃、私は妻と話をして移動を決意しました。人が起きて活動を始めれば昨日と同じようにまた渋滞するかもしれないと考えたからです。子供を連れての移動でパニックに巻き込まれるのだけは避けたかったのです。目指したのは、すでに友人が避難していた会津若松の栄町教会でした。会津若松は原発から100キロ以上離れていると思います。栄町教会は子供たちもたくさんいて雰囲気がよく、ずっと心配そうに泣いていた子供たちにもいいだろうと私たちは考え、少しいさせてくださいと申し入れました。牧師さんご夫妻にはこころよく受け入れていただきました。それから5時間後…ついに1号機が爆発しました。



 



 ようやく少し落ち着けると思った矢先の出来事でしたので、移動するために心を奮い立たせる気力も無かったのですが、チェルノブイリは300キロ先まで被害が及んだということも知っていましたので、会津でも距離が足りないと思いました。



 そして更に、日本アルプスを越えて西部の長野県美麻村の友人のところまで避難していきました。一晩寝ないで走って、長野に着いたのは夜中の3時頃でした。友人の家で温かいお茶をご馳走になって、暖かい布団をいただきました。しかし、極度の緊張状態のために、体は疲労困憊でも意識が覚醒していて眠れません。そしてふと、深夜から早朝の、人が活動をしていない時間なら、比較的携帯電話が通じるのでは?と思いました。被災地に残った両親や友人に電話をすると次々つながりました。みんな、私と同じように眠れぬ夜を過ごしていたのでした。電話ではできるだけ早く避難するように、行く当てがないのなら合流しようとも伝えました。しかし、すでにガソリンや水、それに食料も足りないという状態でした。



避難したくてもできない状況がありました。



私は祈りました。それがすべてで、それしかできませんでした。これが現実でした。



 



 明けて13日、日が昇り始めると、美麻村の方々が動いてくださいました。福島から避難民が来たということは、あっという間に地域の方々に広がり、みなさまから支援の物資、食料、水、それに当面住んでもいいと言うことで、自炊もできる公共施設を開放してくださいました。本当に深く受け止めていただいて、そしてその夜、温かいお風呂も頂きました。生き返りました。そして、気づくと2家族が合流、大人6人、子供4人になっていました。



 



 慣れない集団生活の始まりでしたがみんなが必死で、「子供たちを守りたい」という気持ちで同じでした。午後になると地元の消防団の方たちがテレビを設置してくれました。そこに映し出されたのは巨大な津波の爪痕と爆発寸前の原発二、三、四号機の映像でした。



 三号機はプルサーマルです。去年の9月に始まりました。福島県の「脱原発ネットワーク」はプルサーマルの賛否を問う県民投票の実施を求めてきましたが、知事は無視してきました。プルサーマルは普通のウラン燃料のほかに、使用済みのウラン燃料を再加工して抽出したプルトニウムを燃料にしています。このプルトニウムは人類が作り出した猛毒中の猛毒で角砂糖4個程の量で日本人全員を殺すことができる物質です。放射能の半減期も2万4000年と桁外れ。



 一緒に避難している子供を持つお母さんたちから不安の声が上がりました。「もっと西に逃げた方がいいのでは?」というものでした。みんなが内心、少なからず同じことを考えていました。せっかく美麻村の方々にこんなに良くしていただいているのに、いったいどこまで避難すればよいのか?どこまで行けば安全なのか…?私たちは子供たちの命を守りたくて本気で話し合いました。夕方の話し合いで、翌朝、避難所としてお貸しいただいた施設の清掃をして、正午にさらに西に向けて出発しようということでまとまりました。来たときよりも綺麗にしてお返しするのが私たちにできる精一杯のお礼でした。



 



 翌日14日、全員で早起きし清掃開始、感謝を込めて丁寧にしました。そして昨日いろいろとお世話をいただいた方たちに事情を説明し、お礼を伝えて正午過ぎに美麻を後にしました。



 そのころは長野県でも給油は20Lの制限がついていました。3家族が車3台で、連なっての移動、あてはなくとにかく北陸自動車道を西に向かいました。とはいえ出発したのが昼過ぎでしたから、移動できる距離は知れています。私は宿泊場所の確保を考え、修行中にお世話になった福井にある大本山永平寺の門前の宿坊に電話をしました。永平寺門前の「かいど」さんは修業時代からとてもお世話になりました。社長の渡辺さんが「福島のことだから心配していた。1泊と言わず、少しゆっくりしていけ」と優しい言葉をかけてくれました。



 次の日、私は3時に起きて大本山永平寺の朝の勤行にそっと参加いたしました。仲間たちも何人か一緒に参加しました。それだけで呼吸が深くできるようになりました。地に足を付けてしっかり歩いてゆこうと肝に命じました。



 



まさかその後福井での避難生活が始まるとは夢にも思っていませんでした。



 



 



つづく

















イモ虫 マナの物語り



 
一本の木がありました。




春になって、イモ虫の赤ちゃんがいっせいに生まれました。


お日さまの光をいっぱい浴びたやわらかな木の葉を食べて、


マナもすくすく育ちました。Times;mso-font-kerning:0pt">






暖かくなるにつれて木のあちこちで卵がかえり、イモ虫がふえ、

大きくなって、食べる量もふえました。


みるみる葉を食べつくして、他のグループと競い合い、争いながら、

枝から枝へと移動してゆきます。




あるときマナは、
「このままみんなが木の葉を食べてゆけば、きっと木は死んでしまうわ」
と心配になりました。
「葉っぱが食べられてしまったら、木が枯れて、だれも生きてゆけなくなるのではないかしら?」


初夏になると、太ったイモ虫たちの食べる量はますますふえて、

葉は虫食いだらけになりました。木はやせ細り、すっかり弱ってしまいました。

病んだ葉っぱを食べたイモ虫たちも病気になりました。



 



マナは木が燃えてみんな死んでしまう夢を見て泣き出しました。

この木はみんなのお母さんだよ。私にいったいなにができるでしょう?

マナは木のために祈りました。「ごめんなさい、ゆるして」



 



 



そのすべてを木はしずかに見ていました。マナはサナギになりました。



木のお母さんがいいました。



「だいじょうぶ、心配しなくてもいいのよ。あなたは愛にめざめたから、それでいいの」



 



「もうじきあなたは蝶になる。蝶になったらだれも葉っぱを食べないわ。



花の蜜をもとめるの。そして密の甘さに、酔って踊りまわる。そうすると花に実がつくのよ」



 



 



夏になりました。



木には花が咲いて甘い蜜の香りがただよっています。



蝶になったマナが透きとおった大きな羽を広げて花と遊んでいます。



枝にはすっかり緑がよみがえり、花にはふっくら実がなりました。

正木高志著「蝶文明」より
Takashi Masaki Official Website  http://masakitakashi.jp/



ことは静かに始まっている。
その変化の中をしっかり生きよう。




地震と津波の自然災害に加え
原子力発電所の爆発で、膨大な放射能が漏れている中
壊れたところの修復も出来ずにいる現在…。

少しずつ写真をアップします。
(撮影日 2011/6/19)


同慶寺のブログ-本堂裏
本堂の後ろ

同慶寺のブログ-本堂東上側壁
本堂の土壁は全体的にこんな感じ

同慶寺のブログ-本堂須弥壇
須弥壇


同慶寺のブログ-お地蔵様
山門脇のお地蔵様