貼り付けた文章なので下↓の方からになります
↓ ↓ もう少し下からです
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宗教法人 同慶寺
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2011年3月11日、午後2時46分、私は台所で間もなく3才になる二女を左腕に抱きながら地震に耐えていました。激しくそして長い揺れに、思わず東司(トイレ)に駆け込んで崩れる家から必死で娘を守っていました。
大きな余震が続く中、家の中にいることもできずに外に出てみると、変わり果てた境内の様子。本堂内外の土壁、瓦は落ち、灯籠、文化財指定の藩侯墓所(五輪塔)29基もほぼ全損壊。門前に住むみなさんは?と思い隣近所を見て歩きました。道路はいたる所にひびが入り陥没や液状化現象、塀や家屋の倒壊も多く、揺れの激しさを物語っておりました。
地震直後、ラジオと防災無線で大津波警報が発令されたことを知りました。私の家は海岸線からおよそ4㎞、海抜10メートルは超えているので大丈夫とは思いましたが、初めて聞いた「大津波警報」と「予測される波の高さは7メートル以上」という言葉に、大急ぎで家族を集め山間部に避難をいたしました。
避難すること1時間あまり。津波到達予定時刻も大幅に過ぎたので寺に戻ってみました。相変わらず大きな余震は続いておりましたが寺は無事でした。そして、私はその晩通夜の予定が入っていましたので、できる状況ではないだろうとは思いながらも斎場に向かいました。途中の高台に登ると海岸から2㎞の所にある葬祭場は1階部分が水につかっていました。

それから間もなくして携帯電話でも使える情報ツール「ツイッター」で情報を集め始めました。私のツィッター歴は一年ぐらい、その中で「福島第一原発、冷却装置が津波により壊滅。予備のディーゼル発電装置も流出」というツイートに目が釘付けになりました。私は、昨年8月、福島第一原発3号機で、プルサーマルを実施するにあたり有志の方が開かれた中止を呼びかける講演会で、アメリカの現状として原発と使用済み燃料プールの老朽化による汚染水の漏水リスク、そして冷却装置の重要性と万が一停電などの電源消失で冷却不能な状態になるとどうなるか?ということを学習する機会に恵まれておりました。ですから冷却装置の壊滅というのがどれほど危機的状態であることがすぐに理解できました。
講演会では冷却不能な場合、明暗はその後の24時間で決まりますと教わりました。高温の燃料を冷却するための水の循環ができないと、冷却水はやがて沸騰し、蒸発。そのままであれば燃料が露出して、核分裂の暴走。そして爆発という最悪のシナリオまで学んでいました。
vertical-align:baseline"> そんなことが頭を横切り、地域の方に説明をしましたが、いつもの調子…。
vertical-align:baseline">「原発は絶対大丈夫だ」と言われるばかりで…。
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私は母と妻、それに7才、5才、3才になる子どもの6人家族です。もちろん地域の檀信徒の皆様のことも大切ですが、その前に一人の人間であり、地球を愛するただのヒトです。そして親です。子どもの命を一番に考えました。爆発してからでは遅すぎる。そして交通渋滞などを考えると、ゆっくりしてはいられない。極まりました…。
しかしこんな時だからこそ冷静に…と努めました。そしてやはり子供たちを守ろうと、一時間で用意して避難することを決めました。この時、母は寺に残ること選択しました。家族が引き裂かれ、地域が引き裂かれる…言葉にはとうてい表しきれない、切なさと寂しさと悲しさ、そして「だからあんなに反対したのに…」という悔しさがありました。
寺を出発したのは午後6時半頃だと思います。自動車の燃料が空に近かったので、すぐにガソリンを満タンにしました。(この時点ではガソリン不足は予想していませんでした)向かった先は山を越えた福島市でした。福島市は原発から5,60㎞離れているでしょうか?約2時間かけて何とか到着。福島市もすごい渋滞でした。適当な駐車場に車を止めて子供たちは後部座席を倒して寝かせました。私は朝までツイッターで情報収集、雪の降る寒い夜でした。
しかし、事態はいっこうに好転しませんでした。それどころか悪くなるばかり。ツイッターでは、私がフォローしている仲間たちが表にはなかなか出てこない情報をツイートしてくれていました。そのなかに、東電が予測したタイムライン(原子炉崩壊の予測時間)がありました。それによると二号機が午後11時過ぎには圧力容器の崩壊、(メルトダウン)とありました。アメリカから冷却のための支援ヘリ出動の申し入れがあったが、重金属冷却のため原子炉を廃炉にしたくない人たちが圧力を掛けて、結果として総理大臣は冷却の支援ヘリを断るなど、状況は深刻でした。
12日早朝、空がうっすら明るくなる頃、私は妻と話をして移動を決意しました。人が起きて活動を始めれば昨日と同じようにまた渋滞するかもしれないと考えたからです。子供を連れての移動でパニックに巻き込まれるのだけは避けたかったのです。目指したのは、すでに友人が避難していた会津若松の栄町教会でした。会津若松は原発から100キロ以上離れていると思います。栄町教会は子供たちもたくさんいて雰囲気がよく、ずっと心配そうに泣いていた子供たちにもいいだろうと私たちは考え、少しいさせてくださいと申し入れました。牧師さんご夫妻にはこころよく受け入れていただきました。それから5時間後…ついに1号機が爆発しました。
ようやく少し落ち着けると思った矢先の出来事でしたので、移動するために心を奮い立たせる気力も無かったのですが、チェルノブイリは300キロ先まで被害が及んだということも知っていましたので、会津でも距離が足りないと思いました。
そして更に、日本アルプスを越えて西部の長野県美麻村の友人のところまで避難していきました。一晩寝ないで走って、長野に着いたのは夜中の3時頃でした。友人の家で温かいお茶をご馳走になって、暖かい布団をいただきました。しかし、極度の緊張状態のために、体は疲労困憊でも意識が覚醒していて眠れません。そしてふと、深夜から早朝の、人が活動をしていない時間なら、比較的携帯電話が通じるのでは?と思いました。被災地に残った両親や友人に電話をすると次々つながりました。みんな、私と同じように眠れぬ夜を過ごしていたのでした。電話ではできるだけ早く避難するように、行く当てがないのなら合流しようとも伝えました。しかし、すでにガソリンや水、それに食料も足りないという状態でした。
避難したくてもできない状況がありました。
私は祈りました。それがすべてで、それしかできませんでした。これが現実でした。
明けて13日、日が昇り始めると、美麻村の方々が動いてくださいました。福島から避難民が来たということは、あっという間に地域の方々に広がり、みなさまから支援の物資、食料、水、それに当面住んでもいいと言うことで、自炊もできる公共施設を開放してくださいました。本当に深く受け止めていただいて、そしてその夜、温かいお風呂も頂きました。生き返りました。そして、気づくと2家族が合流、大人6人、子供4人になっていました。
慣れない集団生活の始まりでしたがみんなが必死で、「子供たちを守りたい」という気持ちで同じでした。午後になると地元の消防団の方たちがテレビを設置してくれました。そこに映し出されたのは巨大な津波の爪痕と爆発寸前の原発二、三、四号機の映像でした。
三号機はプルサーマルです。去年の9月に始まりました。福島県の「脱原発ネットワーク」はプルサーマルの賛否を問う県民投票の実施を求めてきましたが、知事は無視してきました。プルサーマルは普通のウラン燃料のほかに、使用済みのウラン燃料を再加工して抽出したプルトニウムを燃料にしています。このプルトニウムは人類が作り出した猛毒中の猛毒で角砂糖4個程の量で日本人全員を殺すことができる物質です。放射能の半減期も2万4000年と桁外れ。
一緒に避難している子供を持つお母さんたちから不安の声が上がりました。「もっと西に逃げた方がいいのでは?」というものでした。みんなが内心、少なからず同じことを考えていました。せっかく美麻村の方々にこんなに良くしていただいているのに、いったいどこまで避難すればよいのか?どこまで行けば安全なのか…?私たちは子供たちの命を守りたくて本気で話し合いました。夕方の話し合いで、翌朝、避難所としてお貸しいただいた施設の清掃をして、正午にさらに西に向けて出発しようということでまとまりました。来たときよりも綺麗にしてお返しするのが私たちにできる精一杯のお礼でした。
翌日14日、全員で早起きし清掃開始、感謝を込めて丁寧にしました。そして昨日いろいろとお世話をいただいた方たちに事情を説明し、お礼を伝えて正午過ぎに美麻を後にしました。
そのころは長野県でも給油は20Lの制限がついていました。3家族が車3台で、連なっての移動、あてはなくとにかく北陸自動車道を西に向かいました。とはいえ出発したのが昼過ぎでしたから、移動できる距離は知れています。私は宿泊場所の確保を考え、修行中にお世話になった福井にある大本山永平寺の門前の宿坊に電話をしました。永平寺門前の「かいど」さんは修業時代からとてもお世話になりました。社長の渡辺さんが「福島のことだから心配していた。1泊と言わず、少しゆっくりしていけ」と優しい言葉をかけてくれました。
次の日、私は3時に起きて大本山永平寺の朝の勤行にそっと参加いたしました。仲間たちも何人か一緒に参加しました。それだけで呼吸が深くできるようになりました。地に足を付けてしっかり歩いてゆこうと肝に命じました。
まさかその後福井での避難生活が始まるとは夢にも思っていませんでした。
つづく