ゆたかに生きるためのノンデュアリティ
この中核となる定義が「心を自分と思い込んでいるから苦悩する」になる
心には個性がある。心には「なぜ存在しているのか?」みたいな目的が多彩にある。
しかし「私」には「なぜ存在しているのか?」は、たったひとつの理由。それは「一体となった心をサポートするため」になる(笑)
人間という状態では「心」が「私」を飲み込む状態にある。だから「心」を自分だと思い込む。
「私」のサポートを受けられない「心」は、常に「なぜ?」と発想する。※サポートを受けてるときは「そうか!」と発想する(笑)
ノンデュアリティが視えた「心」は、「私」と「心」は一体ではあるが「別の物」だと理解する。
「私」と「心」が並列になる。カウンセリングでいうところの「俯瞰した私」の状態だ(笑)
カール・ロジャースは「私ではない何かが」と表現していた。
これは「心を自分」だと思っているから出てくる表現で「本来の私に見守られている心が語りだす」が正確な表現になる(笑)
本来の私に見守られている心
この心は「他の心のよき支え」になる。信頼、癒し処、みたいに稼働するようになる(笑)
心は、他の心との繋がりを大切にしている。そういう「性質」だ(笑)
心と一体となった「私」は「かりそめの私」なので、固有の存在のように振る舞える。本来「私」に固有はないが、心と一体になったときのみ「固有を体験」できる(笑)
私が見つめるのは「一体となった心」のみ(笑)ただ最近は「他の私」と交流しているような錯覚を感じるときがある。
心地よく祝詞が現れる(笑)
しあわせな時間だ(笑)
カウンセリングの神様
カール・ロジャースさんのステキな言葉
私は、自分がグループのファシリテーターやセラピストとしてベストの状態にある時、そこに、これまで論じてきたのとは別の、もう1つの特質があることを発見した。
私がみずからのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私がみずからの未知なるものに触れている時、そして、
私がするどんなことでも癒しに満ちているように思えるその時、私のプレゼンス(presence)そのものがひとを解放し援助的に働く。
ただのわたしが
ひとをかいほうする
この経験を強めるために
私ができることは何もない。
けれども、私がリラックスして、私の超越的な核心の近くにいることができる時、私は人との関係において、おそらく奇妙かつ衝動的な仕方で振る舞う。
合理的に正当化することのできない仕方、私の思考過程とはまったく関係のない仕方で。そして、この奇妙な振る舞いは、
なぜだか後になって正しかったのだとわかる。その時、私のうちなる魂が腕を伸ばし、他者のうちなる魂に触れたように思える。
私たちの関係はそれ自体を越えて、より大きな何ものかの一部となる。深い成長と癒しとエネルギーとが、
そこにはある
(Rogers,1986)。