相手はCDを手に部屋に入っていった。
そこがピアニストの控室なんだろう。
しばらくして部屋から出てきたその人に部屋の中に招かれた。
俺も智くんにくっついて入る。
智くんがピアニストにたどたどしい英語で挨拶と自己紹介をした。
俺も挨拶と自己紹介をする。
智くんは何か言いたいことがあるんだろう。
言葉を探しながら、なんとか文章を作ろうとしてるけど・・・
うまく言葉が出てこないらしい。
もどかしそうにしてるから・・・
「智くん、俺が通訳するから」
子どもの頃から英会話を習わされてきた。
日常会話なら、苦労なく話せる。
智くんはちょっとだけホッとした顔をしてくれた。
俺に向かってちょこっと頭を下げると、彼に向かって日本語で話し始めた。
今日の演奏に感銘を受けたこと。
自分もブラームスを弾きたいけれど、情感がうまく出せないこと。
それで悩んでいること。
俺は智くんが開ける間で訳して話していく。
彼は俺と智くんを交互に見て、頷きながら、話を聴いてくれている。
『きみの演奏を聞かせもらった。
演奏を聴くと、その人がよく分かるんだよ。
とても優しい人のようだね。
相手の全てを包み込むような・・・そんな演奏だった。
聴いている特定の誰か、に向かっての演奏。
私にはそう聞こえたよ。
きみの演奏は曲を使って自分を表現しているようだね。
私は自らのことは演奏では表さない。
私は代弁者だ。
作曲家が曲を使って聴衆に伝えたかったことを・・・
伝えようと考えて演奏している。
きみと私の違いはそこにあると思う』
ピアニストは最後に智くんに手を差し出し、握手を求めた。
『きみの今後の活躍を楽しみにしている。
きみさえよかったら、私の名刺を受け取って帰って欲しい。
何かあったら、連絡してくれても構わない。
私は若者のバックアップにも力を入れている』
智くんは握手に応えて、マネージャーらしい人から名刺を受け取った。
ホールの出入口はすでに閉められていた。
関係者の出口から出してもらった。
「翔くん、通訳してくれてありがとう。
僕もちゃんと英会話勉強しなきゃダメだね」
智くんはなんとなく沈んだ様子で・・・
居酒屋までの道、その一言しかしゃべらなかった。