また大切なこと見つけた。
私たち「支援者」だっていろんな困り事を抱えてる。自分や家族に病気や障害がある、子が不登校、DVがある、低賃金でお金ない、借金がある、物質に依存してたり言えない過去があるetc.でも目の前の人からは「ちゃんとした仕事をして安定した生活を送ってる人」に見える。その眼差しは常に意識している
— 鴻巣麻里香 (@marikakonosu) 2022年11月21日
私たち「支援者」だっていろんな困りごとを抱えてる。
自分や家族に病気や障害がある、子供が不登校、DVがある、低賃金でお金がない、借金がある、物質に依存してたり言えない過去があるetc.
でも目の前の人からは「ちゃんとした仕事をして安定した生活を送っている人」に見える。
その眼差しは常に意識している。
「いや実は私もこんなに困ってて」なんて話をわざわざする必要はない。
支援における「当事者性」は大切でも、「ちゃんとした(ように見える)人の苦労話」なんて参考にならないしむしろ互いの間の一線を際立たせることにすらなりうる。
みんな「〇〇さん/先生も大変なんですね、わかってくれて嬉しいです」なんて聞いてくれるから、私たちの中の自己肯定感やら承認欲求やら何やらが満たされて気持ちよくなってしまったりする。
でもその支援者の自己開示を優しく聞いてくれる当事者って構図は、支援における不均衡なパワーバランスの表れ。
大抵の場合、相手はどんな嫌でも「うるせー今はお前の話をしてる場面じゃない」と言えないんだから、わざわざ自己開示することはない。
ただ自分から発せられるあらゆる言葉が「ちゃんとした(ように見える)人」からの言葉として相手に届くだろうことをわかることは必要で大切と思う。
少し話を逸らすと、支援者がちゃんと自分を当事者として語れる、支援(特に心理的な)を受ける機会はこの仕事を続ける上でマストだと思う。
SVの他に定期的にそういった機会はあった方がいいし、私はそれが無いと怖くて続けられない。
あと、支援者がプロフィールに自分が何らかの「当事者」であることを開示するのもOKだと思います。
それを見て選ぶのはクライエントさんたちだから。
そしてもし自己開示が目の前の人にとって必要で望ましい時がくれば、そういう場が自然と生じたりします。(個人的経験の域内ですが)
私はいなかったからなぁ……SV。
なかなかそういう人は数がいないよね。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/215229
ひどいニュースだな。
日本、限界だと思う。
力が弱く、声をあげられない人がどんどん生きづらくなっていく。
一度底を打たないとダメなのかなぁ。
https://twitter.com/akinaln/status/1594156335330828288?t=NhWJX4GiOUVHKjJUsauNOQ&s=19
「人と人との間には、個々人の考えや努力に関わらず、すでに差別構造による格差がある」
だから「人と人との関係性は基本対等ではなく不均衡」という前提を共有することはとても難しい。
権力がある立場にいる人ほど、「人と人は対等である」「個人の努力次第」と考えがちの印象。
いかに社会の構造の影響を受けているか、を知る機会やリフレクションする機会がないと「自分は属性によって差別をしない」「自分は誰にでも対等に接する」「個人の努力次第でなんでもできる」「うまくいかないのは個人が悪い」となる。
「合理的配慮がずるい」っていうのも社会がいかに障害のない人優位に作られているかの実感があれば出てこない。
むしろ障害のない人の方が優遇されている構造がが維持されているから合理的配慮が必要なわけで。
「ずるい」という人はその実感がないか、もしくは別の抑圧を受けているか。
https://twitter.com/Wheelchair_Tep/status/1594502898989178880?t=mcw5YCXmmpH8AE0216meQA&s=19
野口さんのこの指摘は社会の(差別に限らず)種々の問題を考えるにあたり、共通した前提としなければならない重要事項。
平等(equality)と公正(equity)は似て非なる概念なのだ。
それを認識しておかなければ、平等を進めるつもりが不平等を拡大するという結果につながりかねない。
そして、特権階級に属する人のこのような概念(偏った認識)が個人モデルによる見解の温床かつ社会モデル的視点を進める上での妨げになっている。
このままではすべての人に人権を保障するというのは画餅に帰すのは火を見るより明らかなので、その前提に揺さぶりをかける、ということを意識しなければならない。
底上げです。
必要なの。