マルコ8:30~9:1
昨日のメッセージです。
それに対して、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめます。
イエスは振り向き、弟子達全員を見ながらペテロを叱ります。
「下がれ。サタン。」
なぜ、イエスはこの時、ペテロをサタンと呼んだよでしょうか?
ある聖書注解者はこの記事見て、ペテロの信仰告白自体も実は良く理解して告白したものではなく、まだまだ不十分で人間的な思いがあったのではないか?と指摘します。
しかし、マタイ16:17では、この事を明らかにしたのは、天にいます父ですと語っておられます。問題は、ペテロや弟子達の不理解ではなかったのです。
下がれという言葉の原語の意味を見ますと、私の後ろに来なさいという意味があります。
つまり、ペテロは救いを理解した上で、罪から救うためにはもっと他にも方法があるのではないかと自分の考えを出したのです。その考えをイエス様、そして神の前に出してしまったのです。
サタンがイエスを誘惑した時、サタンを拝めば全世界を与えるという誘惑をしました。それによって、何も十字架の苦しみを通さずとも救いをもたらせるという救いの方法を変える誘惑でした。そのため、ペテロをサタン呼ばわりしたのです。
しかし、このような事はペテロだけではありません。
私たちも、同じように自分の考えや方法を神のご計画よりも優先して、前に出してしまう事があります。もっとこうしたら良いのに、なんでこんな状況なのだ!と言った風に。
しかし、神のご計画こそが全てに優先されるべきです。
そのため、イエスは弟子達や群衆を呼び、キリストについて行きたいと思うものは、自分を捨て十字架を負わないといけないと話します。
この十字架は、一般的に言われているような自分の課題や問題では無く、キリストに従う上で起こる課題や問題、患難であります。
クリスチャンという言葉は、キリスト者がいつもキリスト、キリストという事を馬鹿にして付けられたあだ名です。それくらい人生においていつもキリストを前におくのがクリスチャンの生き方なのです。そうした生活の上で起こる様々な十字架(課題や困難)を背負う覚悟があるかが、問われています。
日常の生活において、キリストを恥じるものは、再臨の時にキリストに恥じられます。
いつもキリストを思い、十字架を背負うクリスチャンでありたいものです。
かなりざっくり書いてしまいました。
説教を簡潔にまとまる難しさをずっと感じています。
続けられるように頑張ります。
それでは、失礼します。