昨日のメッセージです。
あまりまとまりませんでした。ご了承下さい。
舟で移動する中、イエスは弟子達にパリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさいと教えます。
しかし、弟子達はこのパン種の事を実際のパンの事と思い、パンを一つしか持ってこなかった事で、議論をし始めてしまいます。
弟子達の鈍さ、悟らなさには、ホッとする面もありますが、さすがにここまで来ると呆れてしまいます。
イエスも群衆やパリサイ人には理解されなくても、側近の弟子達だけには、理解されて欲しかったはずです。
さすがにイラっと来たのか、
「まだわからないのですか、悟らないのですか、心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなた方は覚えていないのですか?」
と厳しく問いただします。
そして、いくつの5千人にパンを配った時
、4千人にパンを配った時の事を思い起こすようにされました。
この事によって御自分が全知全能の神であり、メシアである事、この本質を悟って欲しい事を伝えています。
しかし、弟子達は、正確なカゴの数を覚えていたにも関わらず、悟る事が出来ませんでした。
イエスに、「まだ悟らないのですか?」と言われてしまう弟子達でありました。
さて、この箇所に出てくるパン種ですが、聖書ではパン種は良い事も悪い事も示す言葉として記されています。
参考に並行箇所である、マタイとルカを見てみますと、
マタイ16:6では、パリサイ人とサドカイ人と書いてあります。
さらに、12節には、パリサイ人やサドカイ人の教えと解説が書いてあります。
ルカ12:1では、パリサイ人の事だけが書いてあり、それは、偽善であると記されています。
ここでいうパン種は、悪い意味のものと解釈が出来ます。
では、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とは何でしょうか。
パリサイ人のパン種とは、ルカにあるように、偽善の事です。
偽善とは、人前で良く見せようとする事で、形や形式にこだわった、律法主義的な考えです。
律法を重んじる事は大切ですが、律法主義になってしまうと、律法を守っている守っていないという事で高慢になったり、人を裁いたりしてしまいます。
特に、能力主義の現代においては何かをやる人、何かが出来る人が重んじられ、そうではない人は軽く見られる傾向にあります。気を付けなければなりません。
ヘロデの種とは、世俗主義の事です。当時ヘロデとその側近の者はこの世の価値観にどっぷり浸かり、近親相姦など不道徳や不品行の罪を犯していました。
種蒔きのたとえでいばらに落ちた種の話がありますが、現代では、ネットやテレビ、友達などから様々な誘惑があります。
世俗主義の種は、私たちの身近にあるのです。
パン種は、本当に小さく、入り込んだ事にも気付かない粒ですが、一度入り込むと全体を大きく膨らませる大きな影響力があります。
それと同じように私たちに対しても、この悪いパリサイ人とヘロデのパン種はいつの間にか入り込んでしまう事があります。
また、私たちのうちにある心にもこのようなパン種は潜んでいて、癌細胞のようにいつか身体全体に影響を及ぼす事があります。
私たちは律法主義と世俗主義の両方に気を付け、福音の本質を知る者でありたいものです。