伝道の書 2-13
私は見た。光が闇に勝っているように、知恵は愚かさに勝っていることを。
などと言っておきながら
そのあとすぐの2-14では
知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし、みな、同じ結末に
行き着くことを私は知った。とがっくりさせることを言っている。

なんなんですか?私自身は明らかに愚かな者で、闇の中を歩いています。
だからこそ、知恵が愚かさに勝るように、光へ希望を見出せるのではないかと
期待したとたんこれです。ではいったい闇の中を歩いているものは、知恵を希望にするのではなく
愚かなままでも辛い・・・どうすればいいのでしょうか?

ダビテ自身も、知恵に憧れ続けていたが、結局自分が望む知恵は得られないことに気がついている。そしてダビテは、自分が望んだ知恵を自分のものにできたとき、真の幸福を得られるのだと考えていたようだ。その知恵はどんなことをしても得られない。だから結局は幸福になるのも
不幸になるのも、神にしか決められないのだと結論つけたのだろう。

確かにダビテの考えたように、結局は人間どんなに努力しようとも、人生終わりが近くなって
みないと、その努力が報われたのか、徒労に終わったのか、分からないかもしれません
まさに第4クオーター残り1分まで、ワンゴールずつ取ったり取られたりのシーソーゲーム状態
。緊張と疲労の47分間といったところでしょう。
最後の最後にどちらか運がよいほうに最後の3ポイントなんて形で勝敗が決まる
そこには実力の差はありません。ただ最後の3ポイントをどっちが入れたか、ただそれだけで
その年のNBAチャンピオンになれるかどうかが決まるわけで・・・
でもその最後のゴールを決めるか決めないかで人生の全てが判断されるわけではないと
私は思うのです。最後の最後まで諦めずに、精一杯戦ったならば、きっと幸福を実現したときの充実感とはまた違う何かを自分の心の中に残せるのではないでしょうか?
それまでの努力し続けてきた自分への誇りとか、努力ばかりで敷き詰めた自分の人生は
きっとだらだら過ごした人生とは全く違う達成感みたいなものは何かしらあるんではないでしょうか?NBAカンファレンスとはまた違うでしょうけど
こんな負け犬にも夢!みたいな考え方をしている私はやはり愚かなんですかね・・・。

伝道の書は面白いので、また明日も書こうと思います