【注意】
①陰鬱でどうしようもなく、面倒くさい孤独おじの独白になります。読むのがしんどいと感じた場合はすぐに引き返し、自身の心を守ってください。他者を無理に理解・共感する必要はありません。
②依存についてなども記載しておりますが、推奨するものではありません。新しい苦悩が増えるだけです。できるなら健全に生きてください。
では本題。
現実にしろ創作物にしろ、受け取り手の様々な観点から感想というものは変わってくる。生きるのに苦労してないなら現状の社会に不満を持ちにくいかもしれないし、逆に偏屈であるが故に作品を穿った目で捉えているかもしれない。再三主張しているが、正しいか間違っているかではなくその時に抱いた感想が大事だと僕は思う。誰かの視点じゃない、自分の感覚を大事にしてほしい。
時が経って読み返す本にあの頃とは違う感想を持てるのは、自身の経験が増えたからだろう。あの頃と違う立場から物事を見れている証左だ。それが成長の証だ。
そもそも、私が何故ブログを始めたのかというと、自己満足に他ならない。共感性や協調性を求められる社会で、陰鬱で重い感覚は排他される傾向にある。
自己投資、上昇思考、エモーショナル。そう言った言葉が巷に溢れ、SNSではいいねやインプレッションを重視される。
自己プロデュースを間違えると学校にしろ社会にしろ、生きづらさは加速していく。
「あの人愚痴ばっかりで一緒にいても楽しくないわ〜」と言われるのが怖くて誰にも悩みを相談できない、なんて思ったことはないだろうか。
20代で僕は、恋人を作らないことにした。
何度か付き合ったことはある。だが、それは自分が如何に社会とずれているかを味わう日々だった。
面白いと思えるものが違う。つらいと思うものが違う。あまりに違いすぎた。
他人の人生を浪費させたくない。消費したくない。搾取したくない。僕は童貞のまま生きることにした。
僕には父親がいない。
母親との仲も修復を諦めている程度には悲惨だ。
祖父母の介護、その死。妹の受験の失敗。
そして僕の進学先の入学金を親が払えなかった現実。僕は高校卒業後、フリーターになった。
数年後、新聞奨学生制度を使い専門学校へ入学する。実家を離れられたが、その後は大した仕事にも就けなかった。
親子という関係でしくじった僕に、家庭が持てる気はしない。社会に馴染める気もしない。
友人はいる。地元にも、こちらにも。バイト先でもアニメや映画の話ができる人はいる。
だが、そう言った繋がりは表層的なものにしか思えない。
孤独。
ヤングケアラーやアダルトチルドレンってやつなのかもしれない。
他人の愛情を上手く受け止められない。それは僕の問題だ。誰のせいでもなかった。
世の中には僕よりも悲惨な人間がいて、僕よりも悲惨でも頑張れる人もいて、だから頑張れないのは自分のせいなのだ。
そうして僕は、アルコールやタバコ、ギャンブル、OD、CBNに依存した。している最中だ。やめたい。まともに生きたい。CBNは規制されるし。
だが具体的な行動に移せない。
「今日はまるで昨日みたいだ。
明日を変えるなら今日を変えなきゃ。
分かってる、分かってる…
けれど…」
(引用: amazarashi 「僕が死のうと思ったのは」)
国の推奨する悩みを吐き出せるSNSだってやってみた。そこでも僕は苦しかった。
「メンヘラって嫌いなんだよ」
「病気だって分かってんなら精神科にでも行けよ」
僕に直接言われたわけじゃない。
それは彼らの仕事や生活上の悩みやストレスだった。彼らは彼らで、つらい。
だが、僕は受け取ってしまう。
それが僕に見える社会だ。
僕だって、変わりたい。
他者を愛せる人に、他者の愛を受け止められるようになりたい。
社会に貢献したい。人の役に立ちたい。
誰かの心を震わせたい。
それが僕にとっての生きるということで、生き甲斐で、幸せだ。
だが、この苦悩を、苦痛を、一体何をすれば取り除けるだろう。
こうして吐き出して、明日が頑張れたことがない。
「優しい人の
優しい愛を
見殺しにして生き延びた」
(引用: the pillows 「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」)
僕は共感を嫌悪し、エモーショナルを否定し、現実の苦痛をこそ見る。
僕は共感し、エモーショナルに浸り、架空の物語に逃避する。
他者に苦痛を振り撒き、幸せを願う。
相反するものを同時に味わい続けている。どちらの立場を取るか、他者には分からない。僕だって分からない。
偏屈で頑固で孤独で、おじさんなのだ。
それが今語れる僕の現実なのである。