大好き。

謹賀3月10日刊行。慣例通り書き下ろしを加え単行本として上梓されるのでしょう。あああ嬉しい。


O-JI–i-SAN」の呼称に逡巡する益子徳一氏の半径500メートルの日常。彼の「72歳6箇月と1日」から一話ずつで、最終回(『中央公論』での)が7日目、つまり七話。物語内時間は均一に流れます。地デジ導入間近とあるところ、読み手との同時代を思わせ――この作品の粗筋の類を書くって、併せて又その魅力を伝えるって、どうすれば……と呻吟すること数時間。広告惹句書評、刮目して相待つべし! 投げたな。いやいや投げてはならぬ。


派手なスペックのない独居老人・益子徳一が視点人物。その彼の日常に派手なイベントが起こる由もなく。行間に妖怪が湧くこともなければお化けも出ない。紙背に怪異が生じることもなければ憑き物も依らない。

何と言っても作中の地の文で


映画やらテレビドラマやら、小説やら、そうした作り物ではこうしたどうでもない日常は描かれることはない」 (200911月号)


お墨付きときたものです。

かと言って、パロディー、パスティーシュ、メタファー、アナロジーでもない。ましてメタでもない。ギミック性皆無のように見えます。

ワン・コード、ワン・グルーヴの設定であり展開、つまり、表層を払って構造を剥出させようと試みると何も残らない、という話だと。従来の京極作品――幾階層が有機的に取り巻き、その各々が滑らかに起動しつつ、同時にきちんきちんと収斂する様――を読み慣れている身にとって、第一話の衝撃たるや。だって、益子徳一が起きました、で終了の第一話ですよ。実質的な登場人物は一人、その名は益子徳一。にも拘らず読了させてしまうリーダビリティ。もちろん面白い。地下鉄車内で声を上げて笑ってしまうくらい面白い(実話)。作者の手練手管と言ってしまえばそれまでです。だがしかし。


つまり。この話、偏に益子徳一氏のパーソナリティにかかってくるといっても過言ではないのです。とはいえ、少し真面目なだけの彼に、読み手がプリティとかラヴリィとかチャーミングとか温かい修辞を惜しみなく捧げようではないかと息んでしまうのは、作品内で丹念に徳一を追うその眼差しとその距離感にそう感じるからに他ならないからです。

作者は色々なインタビュー等で、「(所謂)サブキャラにの描写に頁数を割いてしまう」といった趣旨の発言をされています。例えば、映画『姑獲鳥の夏』のオーディオコメンタリーでは、「内藤はもっと書いてありましたよね」との実相寺監督に、「小者系のキャラクターは好きなんで。空回りする小悪党的な人は書いてしまう癖が」と応えています。

これは、小説の結構に支障をきたしかねないほど細部の書き込みが好きだ、と解釈できるのですが、

好きな登場人物は徹底して書き込んでしまうとも取れるのです。好きは多寡で計れるのです。そう、好きだから至近で細かくて多いのです。

抜粋させて戴きます。

といっても前述の理由によって、どこを抜き出すことも自在という素敵な小説なのですが、例えば紆余曲折あって買わざるを得なかったソーセージと対峙する徳一氏の。


そんな訳で徳一は、独り言を嫌うのだ。

呟き始めたらもう駄目だろうと思う。特に年寄りはいかんと思う。何だかボケの兆候のようにも思う。無意識に呟いているような時は、もう人としていかんと思う。

――だが。

この度はああとかううとか、呻き声のようなものだ。言語として体を成しているのは、よし、くらいのものだろう。

――ギリギリセーフだな。

徳一はそう思うことにした。そしてフライパンを熱していることに気づく。

(略)

ぱき、と音を立てて口が僅かに開いた。ここで力の加減だ。

力任せはいけない。何ごとも加減が大事だ。

「やった」

上手に開いた。

――独り言を言ったか?

そんなことは後回しである。四本だ。四本抓み出すのだ。

フライパンに放り込む。順番に入れるのではいけない。時間差が出ると火の通り具合にムラが出来てしまう。一度に入れなければならない。

成功した。

いや、ここで気を抜いてはならぬ。

好事魔多しと謂う。勝って兜の緒を締めよとも謂う。

先人の貴重な戒めである。全くその通りであろう。

況して――

好事でもなければ勝ってもいない。 20105月号)


うわあ書き写しても愉しい。楽しくないですか?でもこの眼差しです。仲好いですよね。


そして最後に照れ隠しのような少しのホロリ。これ細心の匙加減です。

はい、老人が主役だから危ういのだ。独居老人を焦点に生を照射する、とか老いと衰微しない生臭さが人間の深淵を垣間見せる、といった方向へ急傾斜する訳でもなければ、老練な隠遁者による人生の祝福、とかビルドゥングスロマンにおける導師、といった常道に雪崩れ込むこともない。ペースを変えずに据わりの絶好な位置に「少しのホロリ」をすとんと落とすそのエッジの快さは名人のそれです。


そして。その筆致。冗長体饒舌体……ではないんだよなあ。

例えば、鍵括弧で括られた会話に継いで地に記される台詞――その後に続く稠密に滔々と描かれる思索の一連の流れ、というのは京極作品に見られる極めて顕著な特質。例えば〈石燕シリーズ〉では一種の韜晦として読者の時間感覚や記憶を操作するのに、それが有効に働いていることは衆目の一致するところでしょう。


実はこの仕組みが「オジいサン」においては、益子徳一氏の堂々巡る心の動き――己の老いの処世術とカセットテープの分別方法が横並び同列の――時間感覚にぴったり嵌っているのです。おそらく、それは読者の文字を辿る速度と同じでもあるように思われます。読み手が、徳一氏の体感時間と等価となるよう設定されているであろう読書時間に従って読み進めるということは、彼の裡の「引き伸ばされた」時間を共有することになります。

つまり、読み手がついつい彼のグルーヴに併せて心地良くリズムをとっている内に、身体感覚が、頭の中が、徳一氏に満たされ、やがて徳一氏に同化しているのに気付くことになるのです。これって益子徳一――オジいサンに憑か……


自分の内から涌き上がる自然のリズムやテンポと違うもんに乗っかってしまうということなのだろう。だから、危なっかしいのである」(20105月号)


恐るべし益子徳一氏。

さあさ、明日です。満を持して待つしかありません。