壮絶な、あの日(3.11の津波)
生存した親族数名とお会いした
小学生の子供ふたりを津波で亡くしたお宅の
子供の遺影を見ると涙が出た
もし、自分の子供だったら
どうなってしまうのだろう…想像もできない
もうひとり役所に勤めている親族と食事をした
震災時出張に行っていて難を逃れたとだけ聞いていたが
3.11午後には帰宅しなさいと命令され
戻ろうとした
しかし、電話、電気、交通網すべてシャットダウンしていて
徒歩により帰り道を模索しながらだったという
今まで普通に通っていた橋が決壊してして
国道も崩れているところもあったらしい
家族の安否がわからぬまま自宅に
戻ろうと進んでいた
家には…奥さんと卒業式を終えたばかりで数週間後には
大学生になって東京に出てくるのが決まっていた高校生の三男
そして、おばあちゃんが居るはずだった
しかし、進むに連れて
尋常じゃない津波の被害で
安否が不安になった
でも、戻ろうという一心で進んでいた
しかし、それは危険な地域に向かって
進んでいる事だった
石巻市の外れのこの地域
3階建ての建物は無い
甚大な被害にあった小学校も2階建て
海抜は低く…あたり一面が海の中に沈んだようだったという
海と山しか見えなかったと
しかし3階建て以上の安全な場所が無いこの地域
写真・映像はほとんど残っていない
それでも進もうとしていたところ
また津波が襲ってきたらしい
報道やニュースでは明らかになっていないが
その人の話だと
津波の第一波は川を逆流し橋をぶっ壊し
橋にぶつかった勢いそのままで小学校や
義父の田舎を襲い
第二波…が海から
後方より少し遅れで襲ってきて
ちょうど田舎のその地域で渦を巻いていたらしい
そこまでは知っていたが
その後、その第一波、第二波の引き波で
更に町を破壊し第三波とぶつかり
また舞い戻ってくる…そんな感じだったという
最終的に…第六波くらいまであったんじゃないかと
伯父さんは言っていた
やはり伯父さんも途中で津波に飲まれそうになった
しかし、何故そこにあったか今でも不思議でしょうがない
という3階にあがるロープがはしごにかかっていたのに
掴まってギリギリ難を逃れたとのこと
足元1mまで津波が襲ってきた…と
もう、自分の家には帰れないと悟り
家族は何処かに逃げていると信じて
自分の命も危ないので避難所と思われる所に向かう事に
しかし、当日は雪も降って極寒状態
体はしでにびしょぬれで凍えそうな中
この国道を進めば避難所にたどり着けると
進んでいったが、その国道も水に埋まり
先がまったく見えない
そんな中なんとか国道を進むが
その国道も途中破壊されていて道が寸断されている
しかし、辺りはもう暗くて
道が寸断され無くなっていることも目視では確認できない
ので歩きながら足元には道が無く落ちてしまう
…溺れそうになりながらも泳ぎ
対岸にある壊れていない国道までたどり着く
寒さの中…手足はもうマヒしていたらしい
それを繰り返しなんとかたどり着いた安全な場所で
他の方と会い、奇跡的にライターが使えて助かった
時間は23:00を回っていたという
10時間以上極寒の中彷徨い生き延びた
途中津波で流された遺体を何十体も見て
心が折れそうになったという
しかし、伯父さんはまだ良い方で
山に避難し周りは水しかなく
孤立してしまったひとたちは
助けが来るまで、水がひくまで
そこで待つしかなかった人も大勢いた
…
…
…
絶句した。
何も言葉が出てこない
心配していた家族3人とも
津波にのまれた
尊い命も…家も写真も、思いでも
なにもかも奪っていった
人間はなんと無力なんだろう
俺ってなんだろう
なんか出来ることはないだろうか?
伯父さんは泣かなかった
弱音もはかなかった
なので、俺も泣かなかった
そこに居た全員泣かなかった
楽しい食事会にした
ちょいちょい笑った
楽しかったと言ってくれた
また会いましょうと約束した
今はコレくらいしかできないけど…
これくらいなら出来ると思った
本当の意味での復興はまだまだ遠い
伯父さんの住んでいる仮設住宅も
住めるのは2年間だけ
59歳の伯父さんは来年で定年
来年家も職もなくしてしまったら
どうなっちゃうんだろう
でも、俺なんかまだマシだ…と伯父さんは言った
今後の生活のケアは、行政などは
どう考えているんだろう
3.11の事は忘れちゃいけないし
後世に伝えなきゃいけない
俺ごときに何が出来るわけでもないけど
何かしらしたいと思う
東京生まれ、東京育ちの俺に結婚して
はじめて出来た俺の【田舎】
嬉しくてたまらなく行くのが楽しみだった【田舎】
のんも1歳から行って【田舎】が
ドコなのかもうきちんと理解している
そんな【田舎】は
今…変わり果てた姿になってしまった
一面土色
本当に何も無い
悲しくなるね…。