桜の葉っぱもなくなって
紅葉🍁してきました。
遅い秋の源法院です。
第二回目 生前葬
先ずは「葬儀」について
大学院で修士論文を書いていた時に埋葬に使われた赤色の研究から、ネアンデルタール人の時代にも色が意図を持て使用され、埋葬されていることがわかりました。
儀式ではなく、真心を込めて花や身につけていた副葬品などを入れて埋葬されていました。
僕の研究では「命の象徴としての赤」を取り上げ遺体にペイントしたり、赤い布で包む共通点をあげました。
ただ、日本では奈良大和時代、疫病などあった時は河原で積まれた遺体を荼毘にしたり、町では行き倒れなど身寄りのない遺体は大路に放置されている事は日常でした。
平安時代になると宗教的な儀礼が発達、穢れの思想が強くなり、小説羅生門にも出てくるように、生きていても卑しい職業や身分を生み出し、庶民の中でも差別が生まれました。
身分やお金のある人は寺院や墓地に埋葬して供養をしてもらえますが、遺体は町の外れに「野」と呼ばれる場所を設けて集められていました。
京都の嵯峨野などは有名です。
また僧侶仲間から大阪の梅田も今は一等地だけど、墓地であったと聞きました。うめだ→うめた→埋めた
繁華街ですが本来は人が永住して住む場所ではないのかもしれませんね。
絵巻物を見ても、貴族や武家は塔婆や石塔を建て、右側の墓所は高野山でも見られる囲いのある墓所が神殿づくりのような御殿になっています。
よく見ると、主人の墓の塔婆の下に、手で運べるくらいの庶民のものであろう石塔が置かれています。
その下方には、いくらかその恩恵にあやかりたかったからか、その地で死を迎えたのか?遺体が散乱し、既に白骨化したものもあります。
これじゃ浮かばれずに餓鬼になってしまいますね💦
「餓鬼草子」第三疾行餓鬼
ココをクリック☝️✨
「餓鬼草子」第三疾行餓鬼(だいさんしっこうがき)は、京都国立博物館所蔵の「餓鬼草紙」(旧曹源寺本)の第三段に描かれている餓鬼のようすです。
第三疾行餓鬼とは、餓鬼道の中でも特に「飢え」と「渇き」に苦しみ、餓鬼になってしまい本人も餓鬼になったと気づいていないようですが、救済を必要としている存在として描かれています。
餓鬼草紙(がきぞうし) の世界は
六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のうち、水や食物を得ることができず苦しむ餓鬼の説話を描いた絵巻物で、戦乱が続いた平安時代末期の社会不安や末法思想を背景につくられたと考えられています。
餓鬼草紙は、餓鬼道の世界を主題とした、日本の絵巻で、『正法念処経』の説く現世のカルマ「原因(所業)」に対する来世の「結果(応報)」が描かれています。
こういうことしたら、こうなっちゃうよ的なことです。
主題は「餓鬼」ですが、平安時代と鎌倉時代の端境期にあたる12世紀後期中葉の日本の都市部の一般的な庶民の生活スタイルが描かれ、中には排便の様子も描かれています。
フランスでは文化的にはファッションのように見えるものも、実は庶民は汚物の容器を外にまくので、処理対策として下水道やシルクハット、女性の日傘が発展したと服飾史で学びましたが、排泄も、改めて見るとひとつの文化ですね。
だから遺体の放置もですが、自然のリサイクルには時間がかかりますから、腐敗により疫病が流行るのも無理ありません。
当時の庶民は公衆衛生とか伝染病などの知識もないですし、貴族には多少知識があっても、作業は最下層の庶民ですから、蔓延しても仕方ないですよね。
人を葬る場所もこうして清らかな場所と、そうでない場所が自然と分けられていき、墓地は穢れた場所なので居住地から遠くなっていきました。
葬儀の形も仏教形式で弔うこともあり、今のように天皇は神道という図式はなく、現人神であられるけれど、供養は唐招提寺や東大寺などで見られるように、天皇自らが仏教徒としての戒律である授戒をお受けになり、大きな法要をお寺でなさったりしました。
葬儀というのは、単に個人とのお別れ会や偲ぶ会ではありません。
宗教的儀礼があり、真言宗では得度と授戒が行われて、僧としてあの世に行くだけでなく、大日如来になる灌頂も授かることになるのです。
戒名はまた別記にしますが、法名と違うのは真言宗信徒の葬儀は灌頂の儀式を含むので、一仏教徒として旅立つのではないのです。
最近はあまり見かけませんが、棺に「納棺袈裟」という僧侶が使う袈裟がかけてある事がありますが、それが僧侶となって旅立つ証拠なのです。
辛い加行をせずとも、真言宗信徒で熱心にお寺と関わり教えを実践している人ならばですが、葬儀を行うプロセスで人生の最後は必ず僧侶になれるので心配不要なのです。
死後だけでなく、生前からも死後も金剛薩埵(こんごうさった)の修行の境地にあり、即身成仏を目指すのが真言宗の教えです。
石川県は浄土真宗が多いのですが、浄土真宗は極楽往生することが目標なので、葬儀も偲ぶ会に近いかもしれません。
阿弥陀如来様が約束された事が必ず起きる条件が念仏ですので、守っていれば誰でも死後は浄土が約束されていて、生前もその教えがあるので安楽に過ごせます。
儀式的なことはなく、真言宗に比べ葬儀も短く簡素です。まさにお別れ会です。なので告別式という名称が相応しいでしょう。
戒律を授からないので戒名でなく法名になり、仏弟子となった一般人として浄土へ旅立ちます。
一旦は約束通り人間として生を終えて阿弥陀浄土に行きますが、輪廻転生があるので先の絵巻物で触れた六道のどれかに転生していきます。
終わりのない旅だと「死者の書」にもあるように、輪廻は繰り返されます。
阿弥陀如来さまとの念仏往生の誓願(お約束)なので、浄土に行くので、本来なら年忌法要も永代供養もお墓さえも必要がないということが本来の教えなのです。
戦国武将の妻が行っていた生前葬は、葬儀を命がある状態で施行するので、男性も女性も剃髪します。全部剃るのではなく、昔の女性は髪を切らないで伸ばしていたので、作ったお墓には剃髪した髪の毛を入れ、歳月がすぎて亡くなってご遺体を荼毘にふして後にご遺骨を石塔の下に一緒に埋めたようです。
先日の木下先生の講義は
石塔愛に溢れた先生のお話しはどんどん熱量が上がり時間が足りなくなりました🤣
なのでここでも語り尽くせません🤣
先生の力作を
ぜひご自分の目でご確認ください👀💖
生前葬という言葉は最近のものだと思われていますが、木下先生の著書によると
高野山にある前田利家公とまつ様の石塔にしっかり証拠が刻まれています。
生前葬もことを「逆修(ぎゃくしゅう)」といい、まつ様の石塔に刻まれています。
日本人なのに知らない事が実に多いですよね。
夫である利家公が亡くなったのが慶長四年(1599)閏3月3日。
まつ様の亡くなったとされる生前葬の日が、同年の6月15日。
感のいい人ならすぐにわかりますが、お大師さまと師僧である恵果和尚(けいかかしょう)の師僧不空三蔵に関わる日です。
詳細は木下先生の著書をご覧ください。
この日は利家公の死後100箇日(約3ヶ月)に法要を終えて、まつ様が剃髪して得度され尼僧となられた日です。
木下先生もおっしゃっていましたが、この日にちを選ぶのは、信心深く、真言宗の教義に精通されていたのだろうと思われます。
石塔の事は他にも色々ありますので、ぜひ高野山へお参りの際は、この本を持って、より深く奥の院の神秘に触れていただけたらと思っています。
非常に長文になりましたこと
お詫び申し上げます🙇♀️🙇♀️🙇♀️
あゝ高野山愛が、❤️❤️
僕も止まらない💦
次回は戒名について
ふれてみたいと思います。
高野山真言宗の教義や疑問に思うこともコメントくだされば、僕の分かる範囲になりますが、お答えしたいと思っています。
皆さまのご意見、ご感想を
お待ちしています。
南無大師遍照金剛 合掌🙏
密の字 密教の密であり、三密の密
秘密という意味もあるけれど
また精巧な出来のものも緻密といい
ぎっしり詰まってるのも密という。
真言は不思議なり・・
沙門 源法院 龍正 合掌🙏


