chopin : 幻想即興曲 Fantaisie - Impromptu in C-Sharp Minor, Op. 66 


先輩。

狂った歯車を調整させてくれたのですね。

それも、あの人の手に拠って。


あの人が歯車を調整してくれた日の数日前から、先輩は既に察しが付いていたのですよね。

何故勘付かれたのか、何が原因でバレてしまったのかはっきりと想像はできませんが、私の真実にとうとう辿りついてしまったのですね。

見事です先輩。


先輩とおんなじ姓のあの人は、狂った歯車をいとも簡単にあっという間に直してしまいました。

私は先輩の目を盗んであの人に、どんな調整をしたのか聞きに行きました。

あの人は親切に説明してくれ、けれど大した調整はしていないと控えめな態度でした。

私は、調整後に不良が何本か出ていることを伝えると、あの人は急に真剣な顔つきになって

「同じ様な落ち方ですか?」

と私に尋ねました。

私は、そんなに連続して落ちているわけじゃないので今は様子見ですと答えました。

あの人は結果を重視する性質(たち)なのです。

私がその調整によって機械が正常に動くようになったのか念を押すと、あの人はこう答えたのです。

「たぶん」


これがあの人の答えなのです。

調整後の動作確認をしてないあの人は、そう答えるしかないのです。

あの人は、確かじゃないことを安易に断定しない人なのです。


けれど、あの人の「たぶん」は私にとって安心をもたらしました。

狂った歯車を調整し、それで完全に直ったのかどうか、

「たぶん」という言葉の中にあの人の真意の総てが集約されているのです。


確かにあの日以来、私の狂った歯車は修正されました。

その修正後の効果は、私の行動次第であるし、あの人は慎重であるが故に効果があったか無いかをきっと様子見しているのです。


先輩は何故?

あの人に調整をお願いしたのでしょうか。

まさか先輩があの人に依頼するとは思いませんでした。

態とでしょうか?

私の反応を確かめる為に敢てあの人を連れてきたのでしょうか。

その時の先輩の態度はやけに生き生きして見えました。

私があの人を連れてくれば喜ぶと思ったのでしょうか?

私が嬉しそうにしていれば自分が辛くても構わないとでも云うのでしょうか。


だから私は先輩に一切悟られないようにしたつもりです。

せっかくあの人がすぐ近くにいるのに全然見ようとはしませんでした。

もしあの人の側に先輩がいなかったらば、私はあの人の近くをうろちょろしていたと思います。

先輩が監視しているようで怖かったので私はそれを避けました。

なるべくあの人から遠ざかりました。

それが逆に不自然に見えたとしても、それでいいのです。

私は先輩からあの人を守りたかったのです。


「バン」

と、装置の扉を強く閉める音とともに、私はそれがあの人が出した音であり、調整が終了し、私の夢の時間もあっけなく終わった音だと知りました。

先輩が作ってくれた私とあの人の唯一の接点は、そこからXを描いて互いに遠ざかっていきました。

ですが、あの瞬間から、歯車は我に返り一気に逆回転し始めたのです。

私は先輩の上をぐるぐるゴーアラウンドしていましたが、方向転換し、ダイバートするために一気にクライム(上昇)して行ったのです。


chopin : ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 Op. 58 - IV. Finale: Presto, Non tanto           



或る時晴樹は喬弛にこんなことを打ち明けた。

「私ストーカーされてるんです」


「はぁ?ストーカーですか」

喬弛は突拍子もない話に唖然として答えた。


「そうです。たぶんストーカーです」

「大丈夫なんですか?」

「はい。たぶん」

「誰ですか?知ってる奴ですか」

「もうだいぶ何年も前の知り合いなんですけど、未だにたまに電話をよこすんです」

「う~ん。何なんですかね」

「私、この話前に色んな人にしたんですけど、皆あんまり心配してくれないんですよ」

「ええ?そうなんですか」

喬弛は驚いた表情をしながら半分笑っている。


「はい。付き合ってた彼氏に話したら、“着拒したら?”で終わりでした」

「ええ~っ。着拒したらって、それだけですか……」

喬弛は少し口を尖がらせたような顔付きになる。

「あと、前の仕事の先輩の女の人に話の流れでたまたまそのストーカーの話をしたら、ストーカーの事実自体にはあまり着目してくれなくて笑い話にされました」

「ひどいですね」

「彼氏はたぶん心配してくれたんだと思うんですけど、自分はどうすることもできないからとにかく着拒しろってアドバイスしたんじゃないかと」

「それはそうですね」

「女の先輩は私がストーカーに遇ってるっていう話が信じ難かったのか、それとも私如きがストーカーに遇うだなんて生意気なって思ったのかもしれません。ひはっ」

「はあ。それはよくわかりませんけれど」

喬弛は答えながら困惑したような表情を浮かべている。


「ごめんなさい。私代々木さんに急にこんな話をしてしまって、」

晴樹はそう言いながら突然顔から火が出そうになっている。

「何か誰かに話したくなったっていうか、でも誰かに話して於いた方がもし万が一何かあっても安心かなって思って。すみません、意味分かります?」

「はい。分かりますよ」

喬弛はにこやかな笑顔で答える。


「良かった。本当すみませんこんな話」

「いえいえ、気をつけてくださいね。危ないですから」

「はい。聞いてくれてありがとうございました。もし、何か怖い目に遇ったら代々木さんに報告してもいいですか?」

「いいですよ。僕が役に立つかは分かりませんが、怖い目に遇わないように充分気をつけてくださいね。何かあったらいつでも教えてください」

「はい。ありがとうございます」

晴樹は嬉しそうに飛びっきりの笑顔丸出しで言った。

「いえいえ」

喬弛は余裕のある満足そうな笑顔を返した。


晴樹は喬弛に話して良かったと思った。

喬弛が実際どんな風に助けになってくれるかは問題ではないのだ。

ただ喬弛が味方になるだけで根拠の無いどうしようもない心強さを覚えるのは明白。

いつも繰り返し、晴樹はこの安心感を得たいが為に喬弛を頼りにしてしまう。

これは互いに微笑み合うことでいつも繰り返される形式なのである。

      

Liszt パガニーニによる大練習曲. S.141-1 1番 ト短調 Andante-Non troppo Lento(トレモロ)



夜中にピアノを弾いていると玄関の壁一枚隔てた外の方で、何やらガサっと物音がする。

晴樹はびくっと手を止め、体の動きも一切止め息を殺して外の気配に耳を澄ました。
確かにガサガサと何かの音がする。
風だろうか?しかしそういう感じはしない。野良猫というにはしっくりこない。

晴樹は目を見開いて玄関の鍵が、確かにかかっている映像を何度も点検しながら、玄関の扉一枚隔てたすぐ向こう側に何かがいるような想像を巡らした。
何もいないのかもしれない。だが、確かに何かがいるような気配は拭いきれない、これは決して妄想ではない。
晴樹は一切の物音も立てずあちら側の気配が完全に消えるまで待つことにした。
誰かがいる?
誰かが私の家の前に来ている?
これはとても恐ろしい想像ではあるがでは一体誰だというのだろうか?

例えばそれは泥棒である。
泥棒は夜中に徘徊するのは有りもしないことではない。
あるいはストーカー。
ストーカーと言えば思い当たる人物はいる。晴樹の家より2キロ程離れた先に住むかつての知人である。
何年も前に晴樹が愛想を尽かして以来現在は全く知人とも呼べぬ男である。今になっても時々夜中や早朝など非常識な時間帯に着信をよこす如何かしている男である。
だが奴が、こうして夜中に家の前までこっそりやってくることがどうしても想像できなかった。
奴が来るのであればもっと分かりやすく気配を出すであろう。
晴樹の思い当たるふしで一番怪しい人物として真っ先に浮かぶのは奴ではあるが……、夜中に家の前まで来て様子を伺いに来るという労力を払うとは、何故だかほとんど思えない。
そこまでの情熱を差し向ける程のものだろうか。

だとすれば一体この気配は何?
誰かだとすれば、一体何奴だというのだろうか。



本当は何もいないのかもしれない。

けれどもこの壁一枚隔てたすぐ向こう側で、確かに何かが移動しているような物音はしたのである。
なるべく音を立てないように気配を殺しているその心情さえ伝わってくるようである。
晴樹は依然として気配を殺しつつ、辺りを見渡し、下駄箱の上にある大きな花瓶に目をやった。もし万が一誰かが侵入してきた場合はその花瓶で一撃を喰らわすイメージトレーニングさえ行った。
しかしその誰かは、一向に何の動きも見せない。
外の気配は、いつしか無くなったのか在るのか最早分からなくなっていた。
晴樹の集中力もそろそろ途切れかけていた。


諦めの早い性格である。

晴樹は恐る恐る、またピアノの鍵盤を打ち始めた。

誰がいようと、もう私には関係ない。

晴樹は恐怖と緊張と動揺の果てに、ふいにハッとした。

「もしかして、先輩?」


何故こんなことを思うのだろうか。

これは想像を遙かに超えた彼女の願望であろう。