そもそもあの男はどうして私のことを知ったのだろう。売春宿で私と寝て気に入ったのだろうか。私だってずっと客を取ることに抵抗していたわけではない。諦めきってただ横たわっていたときもあった。いや、その方が多かったかもしれない。
私は日本人の売春婦というふれこみだったのだと思う。あの宿にはいろんな女の子がいた。西洋人も、浅黒い肌をしたインドの子もいた。気の触れた子も、聾唖の子も、片腕のない子も、とてつもなく太った女の子もいた。だけどそれぞれお馴染みさんがいたと思う。私はあそこで人の性的嗜好というのは本当に多種多様なのだと知った。
今の私は盲目の外国人。おかしな話だが、自分の身元を隠したい人にはぴったりの条件だ。
顔の知られている有名な人でも正体は分からない。うっかり何か言ってしまっても理解しない。
ドク、ドク、ドク、ドク、
鼓動が自分の耳に聞こえるほどに高まった。
もしかしたらあの男の背後には誰かがいて、あの男は私に手を出すことを許されていないのかもしれない。
もしかしたら彼はなにか恐ろしいことに私を利用しようとしているのかもしれない。
もしかしたら私は何かの儀式に生贄にされて殺されてしまうのかもしれない。
もしかしたら
もしかしたら
浮かんでは消える想像はどんどん不気味さを帯びてその恐怖で一杯になる。無為の時間と見えない不安がわたしの妄想をどんどん展開させていくのだった。
いったいなにをされるの?
だって、だって、私が死んだって誰にも分からないじゃないのっ!
こうしてはいられない、逃げなきゃ。ここから逃げなきゃ。
恐怖が津波のように押し寄せてきて、私は窓を開けて叫んだ。
「助けて、誰か助けて、
ヘルプ!
ヘルプ!
ヘルプミー!
助けてー」
湿った重い空気の漂う夜の街に私の声が響き渡る。ビルに反響してこだまのように跳ね返ってくる私の声。
ビルがあるということは、人がいるということだ。こうやっていれば誰かが助けに来てくれるかもしれなかった。逃げなきゃ、きっと殺される。
殺される、殺される…
「ヘルプ!
ヘルプ!
ヘルプミー!」
どれぐらい叫んだろうか、声の限りに叫んでも誰も来なかった。
私は壁を叩き始めた。この部屋はドアの対面にある窓だけで、つまり両隣があるような構造になっている。
拳で壁を叩く。ドン、ドンドン。
「ヘルプ!
ヘルプ!
ヘルプミー!」
次にもう一方の隣に向かって叩いてみる。
ドン、ドンドン。ドン、ドンドン、ドンドンドン。
突然ガチャリと音がして誰かが入ってきた。入って来られるのは鍵を持った人物、男だ。
「出して、私を出して、もう私を自由にして」
私は男の足元に倒れ伏して泣きながら懇願する。
「怖いことは嫌、嫌、嫌、
日本に返して!
ジャパン、ジャパン、ヤッポン、ヤッポン、
お願いだから私を帰してぇ」
またドアの音がして、男は出て行きすぐに戻ってきた。阿片の甘い香りを漂わせて。
私は頭を振る。頭を振って拒絶の意志を示す。
こんなところで死ぬのは嫌だ、トロンとした眼をして総てを諦めて生きるのは嫌だ。
眼が見えなくたって生きている人はたくさんいる。こんな牢獄のようなところでずっと暮らすのは嫌だ。
男の手が私を掴む。振り払って後ずさるとベッドにぶつかってそのまま崩れてしまった。再び腕を取られてなお振り払おうと滅茶苦茶に腕を振る。
「痛い!嫌だ、止めて」
ベッドの支柱に皮手錠を通して繋がれようとして、私は必死に抵抗した。