わかったわかったわかった!たしかにTWITTERやってるとブログの更新が疎かになる事はわかった!

連日の暑さの上、さらに風邪をひくといった失態をカマしてしまったKOTATHUです。
いやーなかなか難しいモノです。全ての事象は自分の思い通りにはならないワケで、、、
選ばれる為に頑張るのではなく、選ぶ為に頑張る。それが正しいのでは?そう感じつつある今日この頃。

先日、ある先輩に悩み相談をしました。するとその人は「現実をみろ」と言われました。現実を受け止めることからでしか、道は開けないと。
その時ボクは秘かに、この人は、現実を見られないんだな。と思いました。
だから「現実をみろ」とあらためて言うのだと。
一方、ボクの友達が、あることで追い込まれたことがありました。現実を、捉えていました。
その上で、相変わらず夢だ希望だを言葉にしました。こいつは実際に、現実が見えているから、夢や希望を大切にできるのだと思いました。
「現実をみろ」という言葉に、なぜか違和感を感じてしまうボク。夢想家なのか?
そして「私は現実の痛みを知りません」と言っているように見えてしまうこともしばしば。(もちろん仕事では別の話)
さらには、ボクがこの言葉を言われて傷つく、悔しい思いをしたこともしばしば。(過去に、だけど)
だけど皮肉なことに、裏を返せば、痛みを知るのは現実が見えてしまったときなのでは。ということ。そう考えると、現実って・・・。とも思う。
でも、ある意味では、噂話や憶測が、いかに陳腐かと思い直せるいい機会なのでは?とも思ったり。

現実をみていなかった人が挫折したとき、『現実をみろ』っていえるのだろうか?
予定調和な失敗などありえない。あったとしても自分を傷つけるだけだろうな。
ボクは「ほら!!失敗した」よりも「失敗した!!でもまだまだ成長できるってことだ!!」って考えるようにしています。(ポジティブ!!!!!)
本音で語り合うことが全てじゃない。自己満足や独善で終わることのほうが多い気がするのはボクだけではないはず?言わない優しさ、ぶつけない強さ、こんな形があってもいいと思うわけです。
それが上っ面なら、上っ面のほうがいい。綺麗事なら綺麗事。
よく「心を開いて」と言われます。
そうじゃな。いつかな。
今はまだ、ボクの本音は人を傷つけるかもしれないから、人を傷つけないような心が持てたときまで本音はとっておきたいわけですよ。
上っ面でも、何も考えてない上っ面ではない、心を込めた上っ面。
本音で傷つけるよりはいいじゃないの?とか思ったりするワケです。
少しずつ上っ面が染み込んで、本音が優しくなるのを待っている時間は、なんだかワクワクするモンだし。
傷つけない上っ面と傷つける本音どちらが好きですか?って聞かれたら、
ボクは、傷つけない本音がいいです。はい。

現実=暗いではない。何かに救われた時も、これが現実だと言いたい。と、信じている30歳KOTATHUでした。

”The supreme happiness of life is the conviction that we are loved.”
(人生における最高の幸福は、我々が愛されているという確信である。)BYヴィクトル・ユゴー

KOTATHU。







さてさて。久々に更新してみました。Twitterすごいですね。つぶやく。ある人がこんな事いってました。「ブログは過去の事をTwitterは現在の事を」リアルタイムに今を発信できるTwitterは画期的で、いろんな情報が飛びかっています。まー単純に寂しがり屋のボクとしては「みんな何してるのかなー」とか「こんなPARTYがあるんだ」とか見てるだけで楽しかったりします。
、、、、まーこのブログを長期間放置してた言い訳はこの辺で、、、、そもそも過去の日記なんか書いてないし、今思っている事をだらだらと書いているだけなんで。
と、2010年もいよいよ後半戦です。個人的には「前半終了間際ロスタイム残り2分に泥臭く体で押し込んでゴール!!」といったトコロでしょうか、、、、(ワケわかんないな。)まー劇的に変わったコトがあったんです。詳細はボクに逢った時に聞いてみてください。多分ムカつきます、、、。

で、最近思ったコト。見えている世界が全てではなくて。だから、一つの角度から見ただけで、人を嫌いになるのは勿体無い。故に好きになるのも難しい。とココ2年間はそう思ってきてました。

噂話は苦手です。
その理由の1つに「あの人○○らしいよ」から始まって「マジで?最低」とくり返すような会話に疲れてしまったということ。まあ、楽しい笑い話なら良しなんだけど、、、
「マジで?最低」と言う人が、また別の誰かに「あの人○○なんだよ」と、さも「あの人」と話したかのような口ぶりで言ったりする、そんな光景を何度も何度も見たこともあるしね。
そんな「輪」がすこし哀しい。当然その中に自分もいるのだけれども。だけど何故なんだろう。
知った情報を人に伝え、共感を得られなかったとき、なんだか自分自身を否定されたような気分になってしまう単純さを、理解できてしまうのは?

「らしいよ話」話によっては、それは時に人を傷つけてしまいます。
“火のないところに煙は立たない”と言いますが、煙で他人の人格を決めつける前に、何故火が点いてしまったのか。その火はどんな風に燃えているのか。そして、燃えているものは、一体なんなのか。燃えているということは、何かが消滅しているかもしれないし。誰かが何かを失っている最中に、何が燃えているかも知らない人が、遠くから煙だけ見て「燃えているのは事実だし」なんて判断するのはあまりにもな気がするなーっと、、、。自分はそんなことは極力避けたいとは思ってるんだけど。
自分が人を嫌いになるのは仕方ないとしても、第三者に、自分が嫌いになった人を嫌いにさせてはいけないような気がする。だけど「ただの噂でしょ」で済ますのもなんだかなー。なわけで。

とにかく自分がやれるべきことは、自分に噂話が回ってきた時、翻弄されずその流言を「自分」で留めさせることかな。と。そして、それを包みこめる器を。

ん?なんでこんな話になったんだ?兎に角ボクは、人に笑ってもらいながら生きていきたいわけです。あんまり笑わせることはできないから。笑われるくらいでちょうどいいでしょ。

まあ、久々のアップという事で、話があっちいったりこっちにいったり。元々そうなんだけれども。
あっという間に今年もあと半分。いー年にしたいっすね~

『流言は智者に止まる』BY荀子

KOTATHU。








君がもし、、、

最愛の家族や友人たちにすら、二度と会わないつもりで
皆に別れを告げる事が出来て


君がもし、、、

借金もきれいにして、遺書も書き
やり残した大小、様々な事に決着をもつける事が出来るなら
その時、君は初めて自由になる。


いつでも歩き出せる。


とヤツはボクを笑う。

$TATAMI de MIX-実存主義者

”ユーモアのない一日は、きわめて寂しい一日である”BY島崎藤村

KOTATHU。