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ありがとうございます。

小学生女子二人の

毎日の記録です。

 

 

最近は春なのか

夏なのか

よくわからない日が

続いています。

 

子どもたちの服も

とても悩みます。

 

暑い日は

シャツ一枚で室内にいたりするんだけど

それもどうかと思うのです。

一応、女子だしね。

 

 

 

イモコ、イモミ

「一、応❓」

トラトラトラ

 

ハイハイ、イチオウオジャナクテ

ジョシデシタネ。o(TωT )

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三回目になります。前回は

AI vs教科書を読めない子どもたち 2

 

です。

 

 

子どもたちの恐ろしい現状に対して

何とかしなくては、と

思う大人がいる、というところまで

書きました

 
 
「教科書が読めない子」
思うにこれは
子どもたちの生活体験のなさ
具体的に工夫をすることがなかったことからくる
経験値の不足
そんなものが表面化したに過ぎない
そんな風に思います。
 
怖いのは、
保護者の
子どもに対する認識なのかもしれません。
 
子どもが何を理解しているか
何がわからないか
それを自分の目で確かめない。
 
 
「なんとなく」
「自分もそうだったから」
「どうにかなるでしょ」
で、現実を見ない人が
一定数いるような気がします。
 
親世代の自分たちの
「環境」とは全く違っていると
言ってもいいのです。
それが現代という時代です。
 
ヒトも動物である以上、
環境に左右されるのは
やむを得ない。
この半世紀で
食習慣、自然をはじめ
もしかしたら、
日本人が「共通認識」
として持っていた概念とかも
変わったかもしれない。
押し流されるような変化で
常識が壊されてしまったから、
仕方がなかったとは思うのだけども。
 
 
さらにここに
非現実優位なことが
日常的に入り込んできました。
 
一番初めはテレビでした。
 
視覚優位なメディアは
実際に経験していないことも
経験したかのように
錯覚させる効果があると思います。
 
戦前から映画はありましたが
日常に入りこんでいなかったのです。
特別な時、非日常の世界でした。
それゆえ、映画は視覚優位なのですが
今ほどの害はなかったと考えます。
 
テレビは、番組の制作費を
視聴者が直接製作者に
払っているわけではありません。
スポンサーがいて、その意向に沿った
番組を無料で視聴できるのです。
(情報のバイアスはここでかかります)
 
そのため、大量の情報が
無意識のうちに
視聴する側に入力できるような
番組作り、流れになっていきます。
 
その先に、現在のネット社会が
あります。
今の子どもたち、そして
若い人たちは
その社会に生まれたときからいるのです。
 
50年前の
「ほおっておいても子は育つ」
と言われた時代とは
雲泥の差の環境です。
 
「自分もなんとかなったから」
と楽観視し、
流されるままにしておく。
 
 
疑似体験をてんこ盛りに経験させ、
本当の感動から遠ざける。
それでいて
「教育したような気」になって
そのまま放置していたら
「実際は何もできない」
「見本がないとわからない」
子どもが大量生産されると思うのです。
 
これは、子どもに対する、
一種の知的な
虐待だと思うのは、
言葉が過ぎるでしょうか、
しかし、子どもが持っている
人のためになる力、能力を
発芽させないのは、勿体ない。
 
大人が子どもを抑え込み、
一方向にしか伸ばさないというのは
子どもにとっても
社会にとっても損失だと考えます。
子どもによっては
そこで、ぽきんと
折れてしまうこともあり得ます。
 
折れてしまったら、
枯れてしまう。
 
枯れてしまったら、そこから先は
伸びていかない。
 
その現象の一端が
「教科書を読めない子ども」
であり、
「ある日突然キレる子ども」
ではないでしょうか。
 
 
 
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「教科書を読めない子」に対して
本書には具体的な
救済手段がしるしてありません。
著者の経験則として
 
(以下引用)
「多読ではなくて
精読,深読に何らかのヒントが
あるのかも。そんな予感めいたものを
感じています」
(引用終わり)
 
とあるだけです。
 
 
その直前の項目で
(以下引用)
「AIに代替されない人材は
どのような能力を持ったなのでしょう。
それは意味を理解する能力です」
(引用終わり)
 

と書いてあるにもかかわらず、です。
付け足すなら、
「これからの学校教育の目玉」
としてあげられている、
アクティブラーニングについても
 
「アクティブラーニングは
無理だろう」
と書かれています。
その根拠として
「教科書に書いてあることを
理解できない学生が
自分の意見を論理的に
説明したり
他人の意見を正確に理解したり
できるのか?」
とあります。
 
それはそうですよね。
 
けれど
 
子どものころから
「指示に従うこと」
「問題を正確に早く処理する」
ことを要求されてきていたら
そのスピードで処理することに
特化したように育つのは当たり前です。
 
 
子どもたちの教科書を
見てみると
昭和の時代に育った(!)
私の使った教科書よりも格段に
資料が多くなっています。
考えるヒントになるように、と
問題を解く参考になるような
絵や図が織り込まれています。
 
それでも、
「何を言っているかわからない」
子が増えているのです。
 
そういった子でも
単元テストや
定期テストは高得点の子が
沢山います。
 
 
しかし、
「自分で目的をもって」
目標に向かって進む、
ということや
 
「自分の好きなことを突き詰める」
ということに対して
何もできない子が
沢山いると思うんです。
 
今ある仕事には対応できるから
大丈夫、だと思っているのかもしれません。
(そうじゃないと気が狂うけど)
 
但し、
現状が現状のままで
同じような状態であるとは限りません。
 
 
著書には「この先」どうなるか、
という視点で書かれた
「そして、AI世界恐慌がやってくる」
という一章が設けられています。
 
 
それが、いつ来るのか、
わかりませんが、
「そのとき」
が来ても
すぐには人間は変わりません。
 
それを見据えて
「種まき」のための教育を
していかなくてはならないと思います。
 
そのために何ができるか、
何をしていくか、
一人ひとりが考え
冷静になって
歩を進めていくしかない、
そう思います。
 
 
感情的にならず、
現実を見る、
そういうことです。
 
 
 
本当はここで、
「仕事」「人生」ということや
「男女差と平等」「成果主義」
「認知欲求と子育て」
などについても考えていきたいところですが、
本書と中身が乖離しますので

ひとまずおわります。

 
長いメモにお付き合いいただき、
ありがとうございました。

また、エラソーなことを言っていて
全然できていないことも
お詫びいたします。