前回に引き続いて、

こちらの本についての考察です。

 

 

 

前回は、家庭環境って、

大事だと思う、というところで

終わりました。

 

 

家庭環境は確かに大事で、

頭のいい人の家系

難易度の高い資格が必要な職業の家系、

そういうのはある。

 

医者の家系や

学者の家系

外務省の家系なんかが

そうですね。

勿論、そういう家系にも

そんなに出来のよくない人もいますが、

環境の力でカバーできている

あるいは させられる?ひとも

いると思うのです。

(ここは前記事にも少し書きました)

 

 

そのためには学校選びも大事で

頭がいいといわれる学校には

それなりの子たちが集まる。

 

 

そのために、子どもは

受験勉強を頑張るのであるが、

 

 

 

受験が終わったら燃え尽きてしまう人もいる。

 

 

 

それでは元も子もない。

 

受験はそこから先、

新しいことを学ぶという

権利を得ただけであり、

スタートにすぎないからだ。

 

 

 

受験受験と目の色を変えて

追い立てられてきていたら

終わったとたん、目標を見失ってしまう。

 

それを防ぐためには、

「余裕がある受験」

であると同時に

「知力を振り絞る受験」

でないといけないのだが、

この辺の兼ね合いが難しい。

 

 

大人はある程度先が見えるから、

つい、子どもを追い立てがちなのであるが、

追い立てられてばかりでは、

子どもはそこにしか意識が向かない。

 

中には、何かを欠落させて

成長してしまう子も出てくるだろう。

それでは受験を経験させても、

大事なものを失いはしないか。

 

FullSizeRender.jpg

では、子どものチカラを

十二分に引き出すには

どのようなきっかけがいるのか。

 

子どもの周りの大人が

どのような態度をとる必要があるのか。

あるいは、子どもを取り巻く環境を

どのように整える必要があるのか。

 

 

しかしそれは、この、

『神童はおとなになってどうなったのか』

には書いていない。

 

ただ、神童と言われる人の言動は

あちらこちらに書いてあって、

まとめると、

 

「余裕がある」

の一言に尽きると思う。

 

余裕があると、

全体を俯瞰してみることもできるし、

適度な距離感も取りやすい。

したがって、余計な一言も

少なくできる。

つまり、人間関係の失敗も

少なくなる、ということだ。

 

 

では、この「余裕」

どうしたら、自分の中に取り込めるのか。

 

 

まず、絶対に必要なのが、

「子どもに対する信頼感と愛情」

である。

これは、自分を肯定する力とつながっていくし、

人間関係を正しく構成する力に

必ず必要な力だ。

 

また、これが与えられる時期も重要で、

学校へ上がる6年間に

絶え間なく、惜しみなく

与えられることが重要である。

とはいっても、そんなに

大人の側に潤沢に時間があるわけではないので、

 

与える時期と量、与えるタイミングによって

子どもの成長は

大きく変わる。

 

理想としては、

親が生活する姿を子に見せながら、

この求めに応じて

話しかけ、遊び、相手をしてやることだが、

 

そんなことは、たいていの場合無理なので、

 

 

愛情の質を重視した生活を

心がければいいのではないかと

思うようになった。

 

 

与える、というより、

子どもに働きかけ、子どもの成長を促すのを待つ。

知的好奇心を促すために、

子どもを積極的に

戸外に連れていく。

そして、時間の経過やなんでもない風景を味わう。

 

つまり、子どものころから、

必要以上に詰め込まない、

時間の流れが速すぎない、

他人から強制されない場所に

お気に入りの場所を作る、ということ。

 

 

自然はもちろん大事だが、

昭和30年代のような

家庭環境、生活環境は

もはや私たちは持っていないし

今の時間の密度では

あの時代に帰るのは到底不可能だ。

 

今、与えられる最善を尽くす、

それでいいのではないか。

 

人間が生きている世界、

それがまるごとその子の自然なわけだから。

 

あとは、子どもの話をよく聞くこと。

 

 

子どもの話をよく聞くと、

その子が必要としていること、

迷っていること、

不安に思っていること、

そんなことがよく見える。

 

子どもの話をよく聞く人。

それは、別に親でなくてもいいし、

血のつながりがなくてもいい。

その子が信頼している、

良識のある大人であれば、それでいい。

 

 

その子がくつろげる時間を

ともに味わって過ごしてくれればいいのだ。

 

それが親であれば、

一番無駄はないが、

それをしないほうが良い場合も多いので

それは気にしないでもいいと思っている。

直に顔を突き合わせて話を聞く、

そんな関係が多いほど、

ただの子どもが神童へ

変化していくと思っている。

 

 

学習面での神童は、その延長線上にある。

神童とはつまり、

持てる能力をできる限り

発揮した、

努力できる人間のことだからだ。

 

そのうえで、各種勉強法の中から

自分に合ったものを選択したらいいのだ。

(子どもに判断力がついてくるのは、

どんなに早くても10歳くらいからだから、

それまでは保護者が全責任を負うこと。

子どもがしたがるから、というのは

本当に子どものためにならないこともある。

それを踏まえて選択すること)

 

 

 

書中にあった言葉を引用させていただく。

 

穂積陳重の言葉である。

息子 重遠に対しての言葉である。

 

「勉強度にすぐることなかれ

不規則な勉強をすることなかれ

勉強をして夜を徹することなかれ

毎日怠らず勉強せよ。」

 

穂積陳重は1855年 安政2年の生まれ。

明治から大正にかけての法学者である。

「民法典」の起草にあたり 中心的な役割を

果たしたとのこと。

また、長男重遠は

「日本家族法の父」

と言われる人物とのこと。

 

 

明治は遠い時代だけれど、

それでも

的確な言葉だと思います。

徹夜を戒めているところなんかは特に。

言葉の端々からは

息子に対する愛情が伝わってきます。

 

 

 

FullSizeRender.jpg

 

つまるところ、

神童になったら 必ず

人生が素晴らしくなるわけではない。

自分が自分らしくいられるために

努力できる、という才能を

身に着けた人が神童となるのでは

ないかと思いました。

 

残念な神童とならないためには、

判断力と制御力をつける必要があるけれど、

それは子どもと周りの大人の

良識ある愛情でしか

身につかない、ということかと思います。

 

 

 

 

 

*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:

 

書いていて、

こんな風に子育てしていないなあ、と思います。

いろいろ頭を悩ませる事柄から

逃げてばかりだし、

子どものため、という大義名分で、

利己的なこともしているし、

 

 

子どものための盾になり切れていないし、

 

 

自分では努力しているつもりでも

結果的にそうなっていない

こともたくさんある。

 

 

子どもの面倒を見ている、と

大見得切っているけれど

実際には

子どもに助けられていることは多い。

 

それを

素直に認められない自分がいる。

 

 

 

こどもは自分と違うし、

たいてい自分と違った才能をもって

生まれてきているのだが、

それを認めているふりをして

認めていないんじゃないか。

 

 

 

 

いわゆる、9歳の壁を超えると

子どもは徐々にその才能の片鱗を見せてくる。

 

それをちゃんと見つけているか。

 

つぶしていないか。

 

 

それを自戒はしているけれど,

 

実際には何もしていないので、

子どもに対して

申し訳なくなることがある。

 

子どもがその持てる力を

発揮できるようにするだけで

子どもはみな、神童になるのだから。

 

 

と、言うことで、

うちの2年生と5年生、

どうやって育てようか。

( ´(ェ)`)

迷い道は、くねくね続く。