こちらを読み終わりました。

大王製紙前会長・井川意高(いがわ もとたか)氏の

「懺悔録」です。

 

 

読後感は複雑でしたが、一言でいうなれば、

 

 

人間って、わけわからん!

 

でした。

 

 

 

 

業績としてはかなりのものを上げています。

借金900億円の赤字子会社をどうにかしたり、

少子化社会で市場が狭まっている、紙おむつ業界で

実績を上げたり。

(大王製紙の「G・ooN」、

うちの子たちもお世話になりました。)

 

製品は、見知っていたけれど

会社のことなどはよく知らなかったので、

いろいろあるんだなあ、と読み進めていきました。

最初にどんな人が書いているのかは、

読む方は知っている訳です。

業績の話、業界のはなしについては、

興味深く読んでいけました。

が、

エリートが、何かに取り憑かれていく理由、

堕ちていく過程は、一読しただけでは分からなかった。

この辺り、読みが浅いんでしょうけれど。



 

業績をきちんと上げてきた人がなぜ、

106億8000万円もの借り入れをしてまで

ギャンブルに嵌ったのか。

「毎週のようにカジノに通った」

のは、なぜなのか。

そんな疑問を頭に残したまま、最後まで読み進めていった。

 

 

 

いわゆる、「飲む、買う」

には嵌らなかったところに、

井川氏がギャンブルに嵌った理由の一つがある。

お酒は強かったようだし、好きな様だが、

ハマるわけではなかったらしい。

この辺りも、ひとりの人間としては、面白いと思う。



何事にもきちっと結果を出したかった性格が

仕事では成果を上げ、

私生活、というか、ギャンブルでは災いとなったのではないか。

 

 

普通の人は、ここまで一点集中しない

(多くの場合、できない?)し、

興味の対象が、ある程度、広がっていくように思う。

プライベートや仕事の内外で培った人間関係にも左右されて

興味や関心のある事柄は

増えていくし、その中で何かしらの関係を形作る。

その中に、いわゆる  後ろ暗い関係  が

できたりするものだ。

井川氏も本の中で述べている、

「社外のお付き合い」もたくさんあったようだが、

あまり『深い』付き合いはしなかったのではないか。

だから、特捜の取り調べを受けたとき、

「井川さん、もっと気の利いたおカネの使い道はなかったんですか?」

なんて検事さんにいわれてしまうのだ。

特捜の調べによると、

井川氏の使ったお金は99%はギャンブル、

残りは飲食だそうである。

本人にとっては、ギャンブルが気の利いた使い道であったからこそ、使ったんだけども。

人の趣味に口を挟んじゃ、いけねえな、

検事さん。ニヤリ



 

たぶん、井川氏にとっては

社外、社内を問わず、

本人にとっては、御付き合いはお付き合いで

それだけのものなのだ。

カジノ以外のところでは、

求められるままに役割を演じていたのではなかったか。

だから、自分をさらけ出すもの、

ーこの場合はギャンブルだが、ー

それに嵌る。

いうなれば、素の自分を出す、ということだろう。

市井のひとなら、ここまで資金が続かないだろうから、

また違った結果になりそうなものである。

が、

彼は資金を調達できてしまった。

それゆえに、人間がギャンブルにとらわれ続けるとこうなる、という

見本の一つとなったのではないかと思う。

 

本の中ではさらさらと書かれているが

一回一回の勝負の中では、

脳の理性は飛び、

体の機能も、多少おかしくなっていたに違いない。

眠らず、たいして食べず、関心事は ただギャンブル。

体の機能がどこかくるっている。

まるで薬物に溺れている感じ。

(ギャンブルに溺れているのだから、当然かもしれないが)

あるいは、恋愛の渦中、

あるいは、完全に脳が肉欲に支配されているときの絵とも似ている。

 

 

脳が何かに支配されているとは、こんな感じなのだ。

たぶん。

完全にはまってしまうと、それに歯止めをかけるのは、とても難しい。

依存症の出来上がり、だ。

依存症は病だ。

だから、治療法はあるが、とても難しい。

自分の中に或る、「闇」と対峙することを

要求されるわけだから。

一度溺れてしまうと

その快感から逃れるのは難しい。

何らかの、圧力がいる。

社会から、家族から、あるいは他の集まりから

絶縁を言い渡されることが多いようだが、

自分一人になってしまうのは、

とても怖いと思った。

そして、もっと怖いのは、

 

どこにでもある、依存症の入り口。

 

 

 

そして、完全に依存症になり、

ぼろぼろになってしまった時に残るのは、

 

たった一人きりになってしまった自分と、

「一番信用できないのは、自分」(井川意高)

という、自覚。

 

 

こうならないように、と思うのはたやすいのだが、

彼の後姿に どこか、自分を感じてしまうのは

私だけだろうか。

 

 

自分を確立するために、何かしらに

依存することで、現代社会は廻っていると思ってしまうのは

ゆがんだものの見方だろうか。

 

 

自分の子どもも、もうすぐ、大人のものの見方ができるように

なる年齢が来る。

それを思うと どうしたらいいかわからないままに、

とらわれて、ため息がでる。

中庸を(人並み、ではない)、とは思うが、

どこにでも行ける、昇って、あるいは堕ちるのが世の常だから、

見守って、

困った時に、そっと寄り添うくらいが

大人としてできることなんだろうなあ。

きっと余計なこともしてしまうんだろうけど。

 

どうか、自分の判断を誤らないように、と

切に願ってしまう。

誰に対しても。