例えば、富士山の頂上から雲海を見下ろした瞬間。はたまた、はるかな地平線からのぼる朝日を見た瞬間。そんな息をのむ瞬間。何とも言えない感覚と静寂に包まれるあの瞬間。その時、自分という存在は消えていて、そこにあるのは、言葉では説明しがたい完全な静けさと、解放感と、安心感と幸福感。それこそが、「それ」であり、全体性のエネルギーです。大自然の美しさに目を奪われたとき、「それ」にググッと引き寄せられるのです。なんとも言葉にできませんが、あの瞬間って、なんていうか、生命感みたいなもん感じたりしませんか?「それ」は来たり過ぎ去ったりせず、ただただ、今、圧倒的な存在として全てを包み込んでいます。◆ま、僕は富士山に登ったことないんですけどね。でも自然は好きです。木々があふれる生命感で迫ってくる感じ。あれ、すきですねー。ワクワクします。でも別に自然を見たときに「それ」が感じられるという事じゃないんですね。多分、たまたまです。自分の中の移り変わる物語が一瞬わきに置かれたんですね。この「それ」へのトビラはいつでも開いています。満員電車の中でも、仕事中でも「それ」は変わらず開いています。そこへの道を閉じているのは自分の方です。そうするとどうしても出てくる考えがでは、どうすればいいのか?どうすれば道は、トビラは開かれるのか?という思いが出てきますが、自分が何かをすることによってじゃなく、その自分を丸ごと一旦停止することで、それに気づくことができます。常に再生しっぱなしの自分の物語。その再生を止めるのです。もう絶対再生しないという覚悟でもって。◆悟りだとか覚醒だとかがほしい理由。それは、もう悩みとか不安に惑わされたくない。とか、解放感を経験したい!とか、辛いことから抜け出したい。とか、特別な人になってみたい。とか、はたまた、どうしても体験したいという好奇心とか。そんなことから始まることって多いと思います。僕なんかは上記全部の理由から悟りを求めていました。これらは、あきらかに自我の欲求ですよね。そして、「それ」への目覚めはあらゆる欲求からの解放なんですね。つまり欲求を握りしめている限りは、欲求から解放されません。「それ」へと覚醒していると、不安も辛いことも、一人相撲だと見抜けています。なので、悟りへの欲求なんてものもナンセンスだと理解しています。悟りなんてものすら無いですし、全体性は明らかに全てを構成していますし、全体性以外のものなんてないですし、あるのは、全体性の中に起こっている自分の存在と全体性だけですからね。ですが、自分の中にいるからには、まずは悟りを求めながらも全てをあきらめなきゃならんのです。物語の再生の繰り返しを完全に止める。これを正直に自分の中で誓わないといけません。あくまでも自分の中でですね。欲求は、自分が望む何かしらの想定と現実とのギャップです。そういったあらゆる欲求を手放せるか?つまりは、自分の設定、希望を完全に諦められるか?悟りへの欲求を諦められるか?ってなことになってくるんですよね。今は完全な無です。この無こそ救いです。圧倒的な生命ですし、解放ですし至福です。僕らの目の前に起こっているように見える問題も、この生命エネルギーの表現です。宇宙にはあなたという存在と全体性しかありません。あなたの存在が全体性の中の一部分をあなたに見せています。諦めを突き付けてきます。幸せをあきらめたときに足元の幸せに気づくんです。もしあなたの準備が整いつつあるのであれば、それに気づけるまで突き付けてきます。僕らは与えられるだけです。与えられること、起こることのコントロールはできません。コントロールは無意味だからです。欲求があるところにだけコントロールしたい思いが存在するわけですからね。コントロールしたいのは安心したいからですね。でもいくらコントロールしようとしてみても、安心は見つかりません。安心もコントロールをあきらめたときに足元にあるんですね。
お釈迦はんの手のひら
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