『2001年マーカス・パーキンス氏の真珠湾攻撃体験者取材について』 | Be HAPPY 日々精進・・かな。

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下記は、2001年マーカス・パーキンス氏の真珠湾攻撃体験者取材で起こったトラブルについて、2004年頃、自分がまとめ、関係者、団体名の名を伏せてウェッブページで公開したものを、実名に直したものです。


先日投稿した、『原爆被爆都市「ヒロシマ」で、前代未聞の大規模爆破ロケ』を執り行った当事者(下のリンク参照)が、2001年のこのトラブルのご本人でもあるわけですが、自分はもうこんなことには一切関わり合いたくないのに、未だに尾を引いて、大きな「実害」として降りかかってきています。


あまり声をあげて関係する方々に迷惑を掛けたくないし、もちろんそれは、自分に大きく跳ね返ってくるものでもあるので、今までは出来る限りのところで伝えてきましたが、これ以上、執拗にこの状態が続くようなら、おそらく法的か、それに準ずるところで行動を起こしていく―― 「本当の事実関係やこれまでの流れを周知していく」ことになるのではないかと思います。


それは、何故この問題のテーマが「小灘利春会長」であるかを含めてです。



『 当方、2001年の英国フリー写真ジャーナリスト、マーカス・パーキンス氏依頼による真珠湾攻撃体験者取材に協力して以降、諸事情(下記)により、しばらくの間精神障害を起こし、健康を害しておりました。が、ここにきてようやく、今後はそれを、なんとか新たな前進の土台として受け止めていかなければならない、といった心境になってまいりました。

 依頼を受け、英国インディペンデント紙及び週刊文春誌の記事発表より丸3年かかった計算ですが、先の大戦では300万人以上の人々が亡くなっており、これらの事象に関るということは、ようするに、それだけの責任を負うものなのだろうと今は考えております。

 この件に関し、ご迷惑をおかけした皆様には、改めてこの場を借りて深くお詫び申し上げます。

 なお、この用件に参加した、自称ボランティア通訳者・西崎智子女史(当時財団法人広島コンベンションビューロー・パート勤務。この用件の後、広島フィルムコミッション・主事)は、協力者の情報、著作物、アイデア等を平気で無断借用する、語学力を盾に、最初の取り決めごとをやぶって、すべて自分の手柄となるよう勝手に話を進めていく(それで好意で協力をした者は窮地に追い込まれました)、またそれらにクレームを申し立てると、今度はその協力者の信用を落とすような発言を関係者に対して行なっていく等、複数の協力者に対し、同様の迷惑行為を働いており、関連団体からはすでに抗議文も配布され、締め出しを受けている存在でもあります。故に当HPでも、その後の一切の関係を、固くお断りさせて頂いております。


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 被害報告


 2000年9月頃、「ボランティアで翻訳のお手伝いをさせて下さい」と西崎女史よりメールが届く。当方もHPの英訳版があれば助かると思っていたところであり、一度東京で会って打ち合わせをする。無償でやって頂くのは申し訳ないので、回天関係者の方(峯一央氏)に五万円支援して頂いて、月一万円ずつ五ヶ月に渡って西崎女史の口座に振り込むということにさせて頂く。
 ただし、西崎女史の語学力がわからなかったので、当面は日本国内でのみ立ち上げ様子をみるということで英訳作業を進めた。

 HPの英訳作業も進んだ2000年12月、マーカス氏より真珠湾攻撃体験者取材依頼のメール(日本語と英文が混じったもの。マーカス氏は日本の友人より英訳版を知ったとのこと。それは西崎女史ではない)が当方のところに届く。その和訳を西崎女史にお願いすると、西崎女史は当方の知らないところで勝手に話をすすめてしまい、山田譲様(兵72期。元伊号潜水艦航海長)より「承諾しました」とのメールが当方のところに届く。あわてて西崎女史に確認をとると、「これ私にやらせてください」との返答。山田様は当方からの依頼と判断されたようで、既に話を進めてしまっているし、何より余命をかけた気迫が感じられ、何とか当方もこれに応えていかなければならないと思った。後、マーカス氏は最終的にはすべて当方の意向に従うと伝えてきたため、いわば巻き込まれる形でこの用件に参加することになった。事の重大性から、すべてを投げ打つ覚悟でこれにあたらなければならないと思った。

 当方が回天白龍隊隊長・河合不死男(兵72期)の親族であるということで、河合不死男の兵学校同期である山田様より阿部善次様(兵64・元真珠湾攻撃艦爆隊長)を紹介して頂き、取材の了承を頂く。また同様に阿部様より部下である前田武様を紹介して頂き、取材の了承を頂く。

 原田要様は、西崎女史が写真ジャーナリスト・神立尚紀氏の著書を見てコンタクトをとり、取材の承諾を得た模様だが、後、西崎女史は神立氏にも重大な迷惑行為を働いていたことが判明する。

 当方は様々な情報、アイデアを西崎女史に提供。女史はそれらをすべて自分の発案のように山田様に報告していった。(それを私はCCメールではがゆい思いで見ていた。たとえそうするにしても事前にことわりを入れるのが筋である)。用件が進むうちに、すべて自分の手柄にしたいという西崎女史の思惑がありありと感じられるようになり、「とにかく極めて重大な用件であるから、公の立場を考えて事にあたって欲しい」とクレームを何度か伝えるうちに衝突が起こり、「私はボランティアでやっているんだから、嫌なことはやりたくない」、他「こんなただでやってくれる協力者はもう現れないんだよ」、それでうまくいかなくなれば「だったら私はここでやめるしかない」などと言い出して、マーカス氏との連絡を遮断。取材者三人の確定によりインディペンデント紙の掲載が決まった後は、ほぼ西崎女史の思うままに話を進められ、当方の意向はまったく伝えられなくなってしまった。

 当方はこの重大な用件を、「だまし討ちの汚名を返上する最良の機会である」と考え、そのために、すべてを投げ打つ覚悟であたらなければならないと思った。しかし実際は、無名の、いわば得体の知れない(売名目的に「だまし討ち」を繰り返されるとも限らない)英国フリー写真ジャーナリストと、この用件を自分の手柄にしたいという、自分本位の考えで事をすすめる西崎女史に勝手に進められていった。その精神的恐怖と苦痛は、当方の精神許容を超える、想像を絶っするものであった。

 衝突が起こり、取材を終えたマーカス氏再来日の際には、詳しい日程を教えられず、こちらから問い合わせて二人の宿(これについてもマーカス氏は宿をとるお金もないというので、私の当時の知人の野口氏に無償で宿泊を提供してもらった)に出向いた時は、西崎女史は出迎えもせず、見送りもせず、マーカス氏に何を吹き込んだか知らないが、マーカス氏は終始ベットに寝そべったまま私を見下すといった対応であった。

 この取材は結果、英国インディペンデント紙、および欧州五カ国チャーチタイムズ紙に掲載された。また国内では週刊文春誌にグラビアで掲載。これは西崎女史の投稿が採用されたことによるものだが、以下は神立氏の被害。

 原田様の取材承諾は、先に述べたとおり、神立氏の著書より西崎女史が原田様にコンタクトをとって実現したが、神立氏も60周年にあたり、講談社「現代」に体験者取材の記事を掲載するため、数年の歳月をかけて取材にあたっていた。神立氏はこの分野で長年に渡り取材活動を続けてきた第一人者である。

 西崎女史の動向を知り、国内での競合を危惧した神立氏が女史に連絡をとり、氏も「現代」に記事を発表する予定であることを伝えると、西崎女史は「この取材は海外でのみの発表で国内での発表はない」と返答。ならばと神立氏は取材にあたって幾つかのアドバイスをし、自費で制作した資料も提供。また神立氏の著作物が勝手にインディペンデント紙、チャーチタイムズ紙で使用されたことも黙認した。そして西崎女史は、週刊文春に投稿し(これについても西崎女史が取材をしたということになっているが、実際は英国のライター・ステファン氏が制作した数十個に及ぶ質問に沿ってマーカス氏により行われた。記事をまとめたのはステファン氏である。)、記事が発表される三日前(記事の修正が効かなくなってから)、神立氏にその事実をメールで伝える。しかもその記事のスタイル(レイアウト)は、神立氏がそれまで自身の著書でとってきたスタイルをまったく真似たもの(パクリ)であり、この記事発表により、後に控えた本来オリジナルであるはずの神立氏独自のスタイルによる「現代」発表予定の記事が、西崎女史の文春記事の物まねということになって、掲載見送りの危機に直面する。
 その後神立氏は編集部と必死の折衝を重ね、何とか掲載にはこぎつけたが、グラビアでの掲載は見送られ、スタイルの変更を余儀なくされ、取材人物の変更を強いられ、原稿料も大きく目減りした。

 これらの行為について神立氏が西崎女史にクレームを申し伝えると、西崎女史は、協力を受けたことは一切伝えず、「私の手柄に嫉妬していやがらせを受けている」等、神立氏を誹謗する内容の手紙、メールを関係者に送る。そのメールはご丁寧に私のところにも届き、当時私は神立氏に対して警戒感を抱いた。(誹謗は当方についてもいろいろ言っていたらしい。それを当方は野口氏、他の人達から確認している。)

 当方はとにかく何とかこれを次のステップにつなげたいと、その後も泣き寝入りの形で西崎女史とコンタクトを重ねていたが、西崎女史のいわば語学力を盾にした暴力行為にどうにも我慢が出来なくなり、その約2年後、一通りの被害の経緯を自身の掲示板で報告する。すると神立氏より、私も同じ被害にあいましたとの連絡が入り、神立氏が記していた被害報告を受け取る。神立氏にいやがらせを受けているとのメールを西崎女史より受け取り、女史に同情的にもなって泣き寝入りを続けたわけたが、これで事の全容を知り、西崎女史のとった行為を到底許すことが出来なくなる。

 ちょうどその頃、「米国ミシシネワの慰霊祭に西崎女史が回天会を代表して出席する」との報告が、女史の知人より掲示板でなされる。当方が回天会の小灘利春会長(兵72期)に確認をとると、代表として依頼した事実はないとのことであり、また時期を同じくして零戦の会・岩下邦雄会長(兵69期)が、ご令嬢の住むボストンに渡米するのに際し、西崎女史が岩下会長に承諾を得ないまま、米国遺族との対面を企て、岩下会長が「遺族といっても私とは直接的な関係はない、釈然としない」、と不満を漏らしていることが発覚。西崎女史は私の場合と同様、「ボランティアで協力をさせて下さい」、といって両会長にコンタクトを取り、そこから入った用件を自分の都合のいいよう勝手に進めていたらしい。

 それで慌てて両者がこれまでの一連の被害を報告し、その結果、回天会・小灘会長は、西崎女史は回天会の代表として出席するのではない旨をミシシネワ戦友会に伝え、その返答としてミシシネワ代表のメア氏より「西崎女史を回天会代表としてでなく、一友人として迎える」とのメールが当方に届いた。
 また零戦の会・岩下会長の米遺族との対面も、マスコミ関係者は一切立ち入れないことを条件とし、その当日は西崎女史が企画を立てたにも関わらず、西崎女史は通訳からはずされ(ご令嬢が当たられた模様)、岩下会長の渡米報告にもこの件は完全に無視され、一切報告はされなかった。これで西崎女史は、零戦の会、回天会両会において、出入り禁止の存在となった。*)


 週刊文春への投稿については、阿部様からの要請もあった点など、これら一連の迷惑行為について、西崎女史にも言い分があることは了承している。が、何よりここまで問題を大きくさせたのは、西崎女史が、当然謝らなければならない協力者に対しての己の過失について、謝るどころか逆に相手を悪者にして、周りに嘘をついて己のとった行動を正当化し、すべて自分の実績にして、ステップアップにつなげていってしまったことである。

 現在も西崎女史は広島フィルム・コミッション(前述)において、責任ある立場で表立った仕事をされているようだが、もし西崎女史が今後もその仕事を続けていく意思があるのなら、まずは迷惑をかけた方々に対して謝罪をしていくこと、それが出来ないようなら、今後は一切表立った活動から身をひいてもらう、もしくはそれと同等の扱いを受けていくのが当然の筋であると当方は判断する。』

原爆被爆都市「ヒロシマ」で、前代未聞の大規模爆破ロケ