平成25年 5月6日 (月)
ゴールデンウィーク最終日
この日、私はバイトだった。
私以外の家族は皆休みで、湘南へと出かけて行った。
― 18時40分頃 ―
私は勤務を終えて、ジムで筋トレをしていた時だった。
いつもは話しかけてこないスタッフが、私に恐る恐る話しかけてきた。
「お姉さんから電話があったのですが、今すぐ連絡が欲しいと
のことです。至急に連絡をして下さい。ご家族が事故にあわれたみたいです・・・。」
その言葉を聞いて、一瞬にして血の気が引き、体が震えだした。
交通事故か? 一体何が起こったのか?
救急車の赤色灯と、血まみれになった家族の姿が頭に浮かんだ。
最初は弟かと思ったが、どうやら違う。
急いで携帯を取り出し、見てみると姉からの不在着信が5件もあった。
すぐさま姉に電話をすると、父が海で溺れたとのこと。
外傷はないが意識がなく、大量の海水を飲みこんでしまい肺は真っ白になり
集中治療室に運ばれ、非常に危険な状態だと言う。
それを聞いた私は気分が悪くなり、泣きながらコーチルームへ戻って
その旨を社員の方に伝え、そのまま父が運ばれた病院へと電車に飛び乗った。
一刻も早く会いたい。
電車の中で泣いてしまった。
病院へ到着し、姉が出入り口で私を待っていた。
家族控室へ向かうと、暗く絶望的な空気の中に母と弟がいた。
事故にあった15時頃から48時間が山場だと医者に言われた。
山場は1つだけではない。3つも山があった。
足元に、白いビニール袋に入った父の砂まみれになったウエットスーツが置いてあった。
それには確かに、父の名前が書いてあった。
どうか夢でありますように・・・!!!、そう思った。
私が病院に来る前、私以外の家族は全身砂まみれで血行が悪く
どす黒くなった死に顔のような父の姿を見た。
医師の説明によると、非常に危ない状態であり、レベルを10段階で示すなら10という最悪の状況。
手の施しようがなく、覚悟をして下さいと言われたそうだ。
もし状況が悪化した場合、もう心臓マッサージはせず、このままICUにいても見込みがないため
個室へ移動し、家族でそっと見守るかという判断。
隣では看護師達も涙する、そこまで話は最悪な事態であった。
ただただひたすら、父の回復を祈る。
人間である自分には、祈ることしか出来なかった。
それしか何も出来ない自分が悔しく、悲しかった。
その日の午後までソウルにいた伯父さんが話を聞いてかけつけてくれた。
しばらくして、看護師さんの誘導で面会をさせてくれた。
丹念に手を洗い、消毒をして父のいる集中治療室へと入る。
そこには、鼻、口、両腕を管やチューブでつながれた意識のない父親がいた。
自発呼吸が弱いため、口から気管まで太いパイプで酸素を送り
鼻には胃に入った大量の海水を抜くためのチューブがつながれていた。
他にも沢山、一般人の私にはわからない機具が沢山あった。
父の両肩を何度も叩いて、起きて 起きて もう遅いから帰ろう と、泣きながら叫んだ。
いくら話しかけても、泣いても叫んでも父は目を覚ましてはくれない。
あっという間に面会時間は終わり、家族控室へ戻る。
心友のT氏に電話をすると、都内から車でかけつけてくれた。
今のこの現状に、気がおかしくなり取り乱しそうになったけれど、
心友の支えもあり、なんとかやり過ごすことが出来た。
深いため息ばかりが出て、いてもたってもいられない生きた心地がしない時間だった。
時間が経つのが本当に遅く、静まり返った部屋には時計の秒針が動く音だけが響いた。
家族控室には私達以外の他の家族もいた。
中には、葬式関係者と話を進めている家族もいた。
その日は家族控室のソファーで一夜を過ごした。
控室はICUのすぐ近くにあり、自動扉が開くたびにその音が廊下に響き渡る。
夜中、今に看護師さんが急いで部屋のドアをノックして、
悪い知らせがくるんじゃないかとずっとおびえていた。
― 5月7日(火) ―
6時30分頃、目が覚めた。
夢ではなかった。
面会時間になり父と面会。
一番強い薬を打たれ意識は朦朧としているが、かすかに目を開けてくれた。
苦しそうに眉間にしわを寄せ、首や足を動かしていた。
でも、なんとか一晩持ちこたえてくれた。
しかし、まだ全ての山を越えられたわけではない。油断は出来なかった。
パパなら絶対大丈夫だよ 負けないでね あともう少し頑張ってね
パパに歯治してもらわなきゃ、他に治してくれる人いないよ
やっとハワイ行けるんだよ 起きて いつまで寝てるの
やっぱり、涙はとめられなかった。
海水を大量に飲んでいるため、手はパンパンに腫れていた。
沢山話しかけて、体に触れてマッサージをした。
伯父さんは医療関係の仕事をしているため、機械に詳しく今の状態を教えてくれた。
数値を見て、しっかりとした説明のもとで安定していると伯父さんは言う。
それがどれだけ励みになったかわからない。
あとはお父さんの生命力のみ。
なるべく悪い方へ考えることをやめて、先を明るくみた。
今一番辛くて戦っているのは、お父さん本人だ。
今こそ家族一丸となる時。
この日私と弟は家へ帰り、入院に必要な物を取りに帰宅。
夜の面会をしてから帰ることにした。
安定しているであろうお父さんの顔を見て安心して帰るはずが、
少し数値が高く眠らされているため目も開けてくれず高熱もあった。
伯父さんが帰ってしまってからは数値を見て説明してくれる人がおらず
またも不安が私を苦しめた。
帰りの駅のホームで、学校帰りの学生が行き交う。
それを見て、私は思った。
この子達の両親は元気なんだろうな
いつもの毎日と何も変わっていないんだろうな
気を紛らわせようと、Facebookを開いてみても、そこには
いつもとなんら変わらないみんなの毎日があった。凄く羨ましかった。
普通ならば、仕事が終わっていつものように家に帰って、
玄関のドアを開けたらそこにはお父さんの靴がある。
ウインドをした日は、いつもお風呂場が砂っぽくてウエットスーツのゴム臭いにおいがする。
ちゃんと砂を落としてから湯船に入ってくれと苛つける事が、どんなに幸せなことなのか。
でもこの日、いつもはお父さんが一番風呂なのに、自分が最初に入っていた。
お父さんは事故があってからまだお風呂に入っていない。
体中砂まみれで、髪の毛もバリバリだ。
ヨボヨボなお年寄りを見ても、羨ましく思えた。
体は不自由かもしれないけれど、高齢まで生きてこられたこと。
事故で最愛の家族、大切な人を亡くすほど悔しく辛く無念なことはない。
もう年で寿命なら、それはいつかは皆が辿る道だから諦めがつく。
病気なら、ある程度は覚悟を決めることができる。
でも、事故はあまりにも突然過ぎる。
6日、この日は同じ海岸で亡くなった方が3人もいた。
同じウインドサーフィンをしていた人もいた。
家に帰り、必要な物をまとめている時も不安で仕方がなかった。
今に姉から良くない電話が来るんじゃないか。
返信が数分遅いだけでも不安でいっぱいで苦しかった。
お父さんの寝間着や肌着を鞄につめながら、
これを使わずに終わってしまうことを怖れていた。
生活感溢れる自宅で、また皆で食卓を囲めるだろうか、
またこの家に皆で帰って来られるだろうか、いろんなことを考えた。
お父さんのいない人生なんて、考えられなかった。
そしてお風呂に入り、シャワーを顔にあてて思い切り泣いた。
でも、お父さんなら必ず、
"俺がお前達を残して先に死ぬわけないだろっ!!" と
得意げに言ってくれると信じていた。
どうする話が好きな私は、日頃から父に大地震があって
閉じ込められたらどうするとか、津波が来たらどうするだとか、
無茶な質問をしていたのに対して、どんなに困難でも
最後の最後まで絶対に諦めないと言っていたからだった。
実際に、父が溺れて救出された時も、意識をなくす前に最後の力を
振り絞ってボードの上にうつ伏せではあったがしがみ付いていたからだ。
もう、当分の間喪服は絶対着ないし、悲しみの涙も流さない。
もう、絶対喜びの涙しか流さないと決めた。
― 5月8日(水) ―
朝8時頃家を出発。
9時前には病院に到着した。
姉と母親に、何事もなかったと聞いて安心した。
すると、しばらくして看護師さんが部屋に入ってきた。
「意識がもどられて、お話も出来るようになりましたよ!面会時間外ですが、少し面会されますか?」
急いで手を洗って消毒をし、集中治療室へと急いだ。
そこには、管やチューブが外され、意識が戻った父の姿があった。
奇跡は起きたのだ。
私達家族は言葉を発する余裕もなく、父にしがみ付き
ここが集中治療室であることも構わず声を出して泣いた。
どれぐらい無呼吸状態が続いていたのかわからないが、
頭はしっかりしている。手足もちゃんと動いている。
自分の名前、生年月日、車の車種、色、他のどの回答にも間違いはなかった。
あの事故から一週間。
本当に長く苦しい一週間だった。
私はこの事故が起こるまで、充実した毎日を過ごしていた。
でも、何かが足りなかった。そのことは、頭ではわかっていたけど
後回しにして自分から逃げていたのかもしれない。
人間は、痛い思いをしなくちゃ気づけない。
でも、それでは遅い。ここまでの思いをしなければ、覚悟を決められない。
こんな自分のために、お父さんは土台となってくれたんだ。
この経験を、絶対無駄にはしない。無駄にしてはいけない。
頑張ろう!!!!!!!
