『おくのほそ道』の旅3日目。丸山の章。

 この章は、『おくのほそ道』の旅の目的の1つである義経追慕の意味をもって展開されている。

 さて、本文で芭蕉が訪ねたことになっている医王寺に足を運んだ。



 この医王寺は、義経の股肱であり、義経のために散った佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺となっている。下の写真のように、芭蕉の句碑も境内にみえるのだが、やはりメインは義経及び佐藤兄弟(と兄弟の父であり、この信夫の荘司であった佐藤基治)である。



 兄継信は、平家との屋島の合戦で義経を狙う矢の盾となり命を落とし、弟忠信は京都で頼朝の軍勢に逐われた際、自らを義経と名乗り、身代わりと成り果てたという。義経は平泉に落ち延びる道中、兄弟の父である佐藤基治がいるこの医王寺を訪ねて、兄弟の遺髪を葬った。

 ちなみにこの佐藤基治は、義経が散った後の、頼朝との奥州合戦にて、藤原泰衡の軍勢として参戦し、討ち死にしている。

 また、兄弟討ち死にの報に触れ、悲しみに暮れる母乙和を慰めるため、兄弟の嫁2人が、兄弟の鎧をまとって、兄弟の凱旋を装ったという孝行なエピソードも遺る。下の写真の乙和椿は、その遺産であろう。



 以上の話から分かる通り、この医王寺は義経主従の悲劇が展開された場所である。私も、義経のことに関しての知見はまだまだ浅いのだが、兄弟の墓の前に立つと、懐旧の憶いに襲われ、しばらくの間2人の忠誠を偲んだ。『おくのほそ道』の丸山の章で、芭蕉が落涙しているのも納得だ。


 だが、芭蕉は実際には、この医王寺を訪れていない。『曾良随行日記』には、「不入」とある。「入らず」と読むか、「入れず」と読むかで大きく意味は変わってくるが、芭蕉は何としてでも歌枕に足を運びたいマンだから、医王寺もそう簡単に諦めるはずはない。私は、ここは事情があって入れなかった、つまり入るのを断られたのだとみたい。



 ここで改めて、芭蕉の句に注目してみる。


 笈も太刀も五月にかざれ紙のぼり


 『おくのほそ道』では、芭蕉は寺に入って茶をもらい、義経の太刀と弁慶の笈が宝物として納められているのを知り、上の句を詠むという展開になっている。

 芭蕉は医王寺に入れてもらえかったので、もちろんこれは虚構である。

 芭蕉がこの医王寺に行きたくても行けなかったことを前提におくと、この句も別の意味を含んでいるのではないかと疑惑が生まれる。この句は、要は笈も太刀も中に籠もっていないで、外に飾られるべきだといっているのである。飾って、その武勇をもっと伝えようと。つまり、これは宝物を旅人にみせないことへの反抗の一句とみることもできる。

 ちなみに、この章の最後の一文は、「五月朔日の事なり」という文である。これも虚構であり、実際に芭蕉が訪れたのは5月の2日である。上の句に合わせるための虚構であることは間違いない。医王寺の資料館の記述には、その日付違いは誤りであるとあったが、それが誤りであろう。


 では、医王寺に行けなかった芭蕉はどこに行ったのか。『おくのほそ道』本文には記載がないが、芭蕉はそのあと甲冑堂に足を運んでいる。甲冑堂は、例の兄弟の嫁の像が収められている場所である。本文で芭蕉が、


 中にも二人の嫁がしるし、まづ哀れなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつるものかなと袂をぬらしぬ。


 といっているのは、そういうわけである。

 私も、医王寺→飯坂→甲冑堂という順番で、日の暮れるころに甲冑堂を訪ねてみた。






 

 上の写真が甲冑堂である。中に、兄弟の嫁の像があるらしいが、いつもは閉じているのだろう。芭蕉はこの場所で、嫁たちを偲び、その憶いが丸山の章を書かせた。

 本文に目を通せば、芭蕉は甲冑堂を訪れることで、十分に古人を偲んだことが分かる。だが、やはり医王寺にも行きたかったのだろう。句からその不満と無念が感じられる。