監督:スティーヴ・マックイーン
主演:マイケル・ファスベンダー、キャリー・マリガン
目を見開き、死体と見紛うばかりの虚ろな表情で、冷たいブルー色のシーツに下半身を覆われたまま、それでも魅力的であることを隠せない青年の男が微動だにせず仰向けになっている。
オープニングの最初のカットが、この物語の主人公の心象をすべて語っているように見えた。
簡単に言葉にすれば陳腐に聞こえるけれど、それは孤独と空虚としか言いようのないもの。
どれほどの孤独と空虚なのかは、その後延々繰り返し描写されるセックスとマスターベーションシーンによって間接的に浮き彫りにされる。
会社のトイレでマスターベーション。自宅のトイレやバスルームでマスターベーション。食事中も就寝前も卑猥な動画の収集に余念がない。かといって、街の盛り場では自身の魅力によってお目当ての美女を確実にものにする。妹にマスターベーションの現場を見られたことにショックを受けるわ、ようやく恋愛に踏み切ろうと臨んだ相手とのセックスでは勃起せず、煮え切らない思いで呼んだコールガールのからだではちゃんと果てることができるが、結局虚しさに肩を落とす。そんなセックス依存の日常。
激しい描写になればなるほど、男の表情は、もはやそれが快楽のそれなのか苦悶のそれなのか判別がつかなくなる。これでもかと惨めで痛々しく映像的に貶めていくのは、ショッキングですらあった。
大都会での何不自由ない刺激的な暮らし。足りないのは他人との親密な関係、つまり愛情だけ。
ありがちな話だとは思う。
でも作品として決して退屈なものになっていないのは、彼をここまで追い詰めた要因、何らかの不遇な過去やトラウマといったものが直接示されないからだと思う。表層の生活描写に徹することによって、深層(真相)を観る者の無限の想像にゆだねている感じ。良い意味で宙づりにされる感覚が残った。
例えば。同じく孤独を抱え、兄とは反対に「関係中毒」に陥っているリストカッターの妹はジャズシンガー。男とは愛憎入り混じる犬猿の仲。ある夜のラウンジで、彼女の素晴らしい歌を聴きながら男は無表情のまま意味深な涙を流す。それは都会で孤独に生きるしか他に術のない者についての歌だった。あるいは、住むところがなく突然自宅に転がり込んできた妹との罵り合いの会話で仄めかされるこんなセリフ。「わたしたちは悪い場所にいたのよ…」
彼らふたりの過去は全くわからない。確かなのはふたりとも絶望的に孤独で空虚であるという事実だけ。そんなふたりの先の見えない物語に観客として訳も分からず投げ込まれ、付き合わされてしまうという不条理感にこそ、この映画の体験的な醍醐味があると思う。
斎藤環氏が解説しているように、ふたりはある意味この絶望的孤独に関して共犯者であり、決して愛や絆によってお互いを補い合うような関係ではないようにみえる。その印象はラスト近く、悲劇的で最悪な出来事を何とか二人で乗り越えたあとでも変わらない。要するに救いが示されない。
観るものは途中でほっぽりだされ置き去りにされて終わる。
映画日記。(2012年4月18日)
