外に出るということは、傷つくということ
今日は、ひきもりサバイバーのぶらりさんの記事をリブログさせて頂きます
ご自身の気持ちが反映されており、とても分かりやすい記事となっていましたので、読み返す為の備忘録を兼ねて吐き出し
ぶらりさんは既に不登校界隈で有名な方と思われますが、ここで初めて出会った方は是非ともブログへ飛んでみて下さいませ〜
抜粋
これは言いにくいことですが、私もそうだったんで、はっきり言いますが、ショックを受けた場所から逃げました。
逃げたことはその時は必要なことでしたけど、
そして一番残念なことは、不登校というのは、失敗したまま、逃げたまま、そこで時間が止まっています。
そーなんですよ
失敗体験のところで本人の時が止まっているというのが私が側から見ていても1番どうしたものかなぁ…と思っていた部分でした
外では傷つくというのはデフォなんですよ
それを恐れ過ぎては何も出来なくなってしまう
逃げた・逃げて良い・だけど逃げ続けることは出来ないから
一時撤退〜!は有りでしょう
ただいつまで見守ってりゃいいのかは、その子によってずいぶんと違うってことだけども
今回一番心にグッときたセリフ
コレ
結構、ハードなこと言っていると思いません?
というぶらりさんの素直な気持ち、そしてすごく繊細だということがこの一言に現れています
何というか
本当につくづく繊細なんだなぁと思ったし、こう書くと反感買いそうですが、マジかぁ…と思ったんですよ
社会性は社会の中でしか育たないという残酷な現実を知り、その成長は必ず痛みを伴うことを覚悟する。それが成熟であり、大人になると言うこと。その過程で失敗して茫然自失、休んで、また挑戦。ここでダメならあっちで頑張る勇気。それでもそれでも社会にしがみつこうとしたからこそ、人としてまとまっていく。
これ、デフォでしょう
まあ。。。
だから何やねんっていう事なんですよね(あ、こういう身も蓋もないのは反感持たれるの承知で書いてますよ)
理路整然と書けばこうなるんでしょうけど、やり合って経験していかないと身に付かない感覚が沢山あるし、痛みを知らなきゃその他を知ることも出来ないんですよ
そんな事言っても傷つきやすくて辛いっていうお母さん達や、すごく傷つきやすいっていう子供達もいるっていうのもデフォですが
傷つかないでずっと生きていけるなんてあり得ないし、もし傷つくチャンス(敢えてチャンスと書いてます)が少ないまま大人になれば、いつまでもそういう事に自分で対処出来ないままになってしまう
でも、こういう成長がどのくらいどういう形で進んでいくのか
誰にも
分からない
本人にも親にも。。。
そういうことなんですよね
先の見えない苦しさは誰にも正解が分からないってことなんです
計画が立たない
一般的な概念で話しをしたとします
色々な反論や正論があります
正論は人を傷つける
なーんて正論な反論がありますよ
しかし人は一般的な概念を元に自分の人生や、対人関係の問題まで凡その見当をつけて計画をし、言動をコントロールし、生きています
勿論個人でそこに好みや感性、知識や知恵で微修正をし、少しずつ他とは違う判断と選択をするからそれぞれ違う人生になるのですが
不登校やひきこもりだと計画を立てられません
痛みを伴う判断や選択から逃げているからです
その内容がどんなに些細なことであっても、本人が不安だし怖いと思えば止まったままなのです
何年でも
ありのままを受け入れる
とは
親はそういう状況にあるんだという事を知って、未熟であるということを受け入れていくしかないという事なんだなあと
暴言や暴力、際限の無い我儘などを受け入れるのとは違うんです
逃げたんだけども、その先どうしようかっていう話しが出来る成熟度ではない事を受け入れていくしかない
子供によって少しずつ出来ることと出来ないことの程度の違いはあるでしょうが
それらを正常に判断出来る大人が選ばせようとしても、本人は止まっているのだからとりあえず何も選べないということ
無理矢理選ばせた後のストレスは通常では考えられないレベルだというリアル
脳の発達と拘り
拘り始めると前に進めないというのは脳の働きがそういうことになっているからに他ならないでしょう
やっとそこが腑に落ちてきたのが一年ぐらい前だったか…だいぶ前ですがもう忘れました
所謂グレーゾーンだと言われても、全て脳が処理していますから、障害認定されていなくても拘りが強ければ辛いでしょう
痛みはそれぞれ違う
のだから「皆んなも大変なんだよ…」というような事を言われると余計に傷つく
という正論⁈がありますが
脳の感覚が違うという事ですよね
痛みの感じ方、感覚は違って当然ですが、痛みを伴わない社会は無いので、外へ出れば傷つくこともあるというのも当然です
ぶらりさんも書いておられるような
友達はそれを耐えているのに、友達はそれでも学校に行き続けているのに、自分は逃げた
という気持ちの説明もですが、子供によってその辺りの解釈もまちまちであると同時に、どのように表現するのかもまちまちです
自責タイプなのか、他罰タイプなのか、攻撃性が自傷へ向かうのか他害になるのか
又、どのくらいそこへ拘ってしまうか、逆にどのくらい俯瞰的に考えられるかも全て脳の働き次第ということ
それは外側からは見え難いのですから、観察を続けるしかない
斎藤環先生の台詞をお借りすれば
祈るように提案する
ことを繰り返しながら、本人がどの程度の成長過程にいるかを月単位、年単位で観察していくという、一般的な母親には気の遠くなるような子育て期間を過ごすことになります
大人になっても俯瞰が難しいというのは誰でもありますが、その成熟度や程度というのは外側からでは如何ともし難いわけで
親のコントロールしたい欲などなど⁈
というのを自ら見つめ直し、親自身が生を考え直す切っ掛けになることは良いことですが、子供には子供自身の課題として、親の脳とは違う次元で立ち止まっていたりするわけです
発達の問題も、心的外傷も、親との関係も、学校や友達との関係も、どれも複雑に絡み合っているはず
どの部分が一番引っかかっているかは本当にそれぞれ
これさえ正せば良いというものでもない
それを分けて(アドラーか?アドラー出てくるとこの辺りが説明し易いのかな?)考えていく
めっちゃ忍耐です
難しいですよね〜
なんか纏まらないけど
そんなメンタル脆弱に育てた母親が悪い説
お母さんが過干渉過ぎた説
お母さんは悪くない説
どれも部分的なことですし、極端にどれか一つを盲信して自責に走ったり、逆に全く自分を振り返らないのもバランスが悪い
自分と子供、環境や家族としての全体を見ないことは危うい
勿論発達障害も鬱もその他病的なものもあるかもしれない
それでも少しずつ脳に働きかけることは出来る
はず(息切れ笑)
だから
愛ですよ
リブログさせて頂きありがとうございます
だいぶ日にちかかっちゃった(・・;)
なんか暑いのに寒い風が吹くので、体調が落ち着かなくて
では次こそは益田先生の動画貼り付けを。。。したい。今、益田先生ブームなんで
ではまた〜