Take it Easy

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For some reason,

Amebaでブログを始めよう!

いろんなことが停滞してしまっているので、
書いてみようと思います!
もうだんだんと薄れてきてしまっているかもしれないけど。
自分のことしか書いてません!



今日は3/26で、本当なら郡山のJAMで東京と地元の友達集めて、
卒業ライブをやるはずの日でした。
企画して、すごく楽しみにしてたから、本当に悲しい。
いろんなことが落ち着いたら、また日程を合わせて、
いつかまたやれたらいいな。
やれるような福島県にもどれるといいな。


あの日からのことを書いてみます。
大震災前日、私は住所変更のため急遽福島に帰省していました。

当日、市役所で転出届けを貰い、眼鏡を作りに郡山に行って、
それを受け取ってデパートにいる時に、あの地震に遭遇しました。
まじで眼鏡作ってなかったら悲惨だった。。。

靴売り場で試着してて、あー揺れてるな、やべーなとか思ってたら、
母親がパニックに陥ってしまい、騒ぎ出したので自分はフードをかぶって、
母親の頭を抱え込むようにして座っていたら、
ショーケースが次々と倒れて割れはじめて、電気が消えた。
電気はすぐに復活して、避難指示の放送が入って、
みんなが避難を始めたとき、うちの母親はなぜか「この靴買っていけませんか!?」
とか言ってて、まじでこの人すげーな!!!って思いました!!!
説教したけど。
逃げながら実家に電話して、すぐかけたから繋がって、
祖父とソラの安否確認はできた。

それで、外にでたら3時なのに薄暗くて、猛吹雪で、
世界が終わるのかな、って思った。すごく怖くなった。
建物の中にいた人達がみんな外にでてて、本当に異様な光景でした。

車に戻って家に帰ろうとしたんだけど、
余震もすごくて道も大渋滞していて、
信号も各地で消えてて、
道路沿いの家の塀は倒れてるし、
瓦は落ちてるし、
火事が起きてるし、
道路もぐちゃぐちゃになっていたりして、
ほんとうに、大変なことが起きた、って実感しました。
はやく家に帰らなくちゃ、っていう思いだけでした。
30分で帰れる道のりが3時間くらいかかった。

家に着いたら祖父が外にいて、ソラと一緒に出迎えてくれました。
怪我がなくてよかった。
家に入って、2階に駆け上がったら、いろいろ割れてたりおっこちてたりしてた。
それをまたいで自分の部屋に入ったら、
パソコンがみるくのゲージのすぐ隣に落下してて青ざめた。
けど、当の本人はすやすや眠ってました。よかった。
とりあえず、水がでるかどうか確認して、お風呂場の蛇口をひねってみた。
そしたら水道管に残ってたらしい水が少しでて、
すぐに止まってしまいました。

うちは食器棚が無事だったので、
壁に少しヒビが入ったり、お風呂場のタイルが落ちたり、
ちょっとした陶器が割れたりしただけで、被害はそこまで酷くなかった。

ただ、隣のおうちは食器棚とか全部やられて、瓦も落ちて、
片付けないと家の中に入れない状態で、余震が軽くなるまでうちにいました。
近くの集会所には家が壊れた人が避難してきてたりとかしてた。

それから一週間くらい、うちの地域は断水状態でした。
余震が続くので、みんな洋服のまま集まって寝て、
ガソリンもないし、暇をもてあましてて、
とりあえず炊ける時にご飯だけは大量に炊いてたので、
すげーおにぎり作るのプロくなった!

あとは壊れたものの後片付けだとか、
掃除とか修理とかずっとしてた。
でも、水とガソリン以外は復活していたので、
けっこうのんびりとしていました。

自分達が被災者である、って全然思ってなかったし、
もっと酷い状態が続いている人たちがいるから、
ほんとうに幸運だったなーと思ってのんきに暮らしてたんだけど、
自分が特殊な状態にいた、って実感したのは卒業証書をもらいに東京に一日だけ戻った日でした。
大宮駅についたら、
少し薄暗いものの、いつもどおりの毎日が流れていて、
外国にきたみたいだった。
もう忘れ始められている感覚。
どうしたらいいかわかんなくなって、
立ち尽くして泣いてしまった。
でも一度泣いたら気持ちの整理が出来ました。
4月からは東京で、働かなきゃいけない、
がんばんなきゃいけない。
このギャップに慣れるのもトレーニングだ。って。

ガスト行ったり、学校いったりしたら、みんなが会いに来てくれて、
泣いてくれた友達やわざわざ私のために待っていてくれた人達とか、
たくさんいてすごく救われました。
やっぱりギャップはすごく感じたし、
普通にお店でご飯を食べている自分が全然信じられなかったけど、
気持ちの切り替えができました。
卒業おめでとう。ありがとう。

いろんな手続きを終わらせて、
翌日の夕方には父親のガソリンの関係で福島に戻りました。
今はもう、水も復活して、ガソリンもだんだん流通してきて、
まだお店はあんまりあいていないし、
お店にある品物の数はかなり少ないけど、
少しずつ、復活してきました。
原発さえなければ、きっと不安を感じずにいられるくらい。

本当に、もう、
水が危険だとか、野菜からヨウ素がでたとか。
気にすんな、大丈夫だ!とか一概に言えない状態ですね。
本当に現実のこととは思えません。
映画とかゲームの世界。
外出はマスクでとか、雨の日は外にでるな、とか。
なんだこれは.......本当に。
50kmくらい離れているから避難圏内ではないけど、
本業ではないけど農作物やお米を少なからず作ってて出荷しているし、
うちの地区なんて農家ばっかり。
もう、福島って名前がついたものたちはしばらく売れないし、あげられない。
今年だけじゃない、この先きっと何年も、です。
これから、本当にどうなっていってしまうのか、わかんない。
きっと人もはなれていってしまうんだろうな。
とりあえず、もう今年はどうにもなりません。悲しい。
風評被害にはもう苛立ちよりも、悲しみしか感じられません。
お願いだから、このまま収まってくれますように。
わたしの大切な地元を、これ以上荒らさないでください。

うちは兄を特殊な状態で亡くしたばかりで、
家族の精神面はこの震災のストレスも加わって極限状態にあります。
私がギリギリまでこっちにいることを選んでいるのもそのせいです。
他の県に逃げればいい、という選択も簡単にはいかない事情もあります。
それは福島県民が全員そうです。
形の見えない不安と毎日戦っています。
私自身は4月からは東京で仕事だから側にいれないのが本当にくやしい。
一人逃げ出すみたいで、本当にふがいない。
でも、自分の役目をはしっかり生きて仕事をしっかりすることだ、と自分にいいきかせてがんばる。
それで、両親のために何年後かに福島に戻りたいと思っています。

本当に人生観変わった。
きっとこれから、日本全体の日常もすこしずつ変わっていくんだと思います。

こうやって書くことで、少しいろんなものが整理できました。
4月から東京で、がんばります。