「昭ちゃんのお嫁さんになる~💕」
と子供の時はよく言っていたらしい。
昭ちゃんが高校生だった時に私は産まれたらしい。
昭ちゃんはよく乳飲み子の私をおんぶしてミルクを持って、喫茶店みたいなとこに行ってたらしい。
で、そこのママさんがミルク飲ませてくれたりオムツ替えてくれたりしてたんじゃないかと母から聞いた。
どうやら、盗むようにして連れ出すというか、持って出ていたようだ。
気が付いたらいない…という状況だったから、私も喜んで持って行かれていたのだろう。

その昭ちゃんは母の弟で45歳の早世だった。
下咽頭がんで、独身だったこともあって告知も何もかも自分だけで聞き治療方針も医師と相談して決めて、最後の1ヶ月くらいだったかは、「淋しいから、もう入院はしたくない」と言って帰ってきた。
まだ祖父母も健在で元気だった。
長男のお嫁さんも昭ちゃんが学生の頃から同居してたからか、できた素敵な人(本当に美人で愛情深い)だからか、祖父母宅に帰ってくることを快く受け入れてくれた。
母もよく泊まりこみにいったりしてた。
私も点滴の指し直しに駆り出されたり、会いに行ってた。
最後の方は点滴に繋がれることを拒否して、掛かり付けのおじいちゃん先生が受け入れてくれた。
氷水ばかり少しずつ飲んでいた。
飲んでも食道に穴が開いてるから、そこから流れ出てた。
『一緒にお水を楽しみましょう』
とぐちゃぐちゃの字で筆談。
気管切開してたから声も出ない。
一緒に水飲むと喜んで笑ってた。
家族みんなが泣き笑いの日々だった。
昭ちゃんは横になると息苦しくなるから、ずっとソファーに座って生活してた。
その日もそうだった。
時間は22時頃、「明日は日勤だから、そろそろ帰るよ」と言うとこっくり頷いた。
洋間から二部屋あるいて靴を履いていたら、長男のお嫁さんが、慌てて呼び戻しにきた。
「昭ちゃん、息、してない❗」
って…
昭ちゃんは項垂れたまま、反応がなかった。
呼吸はかつかつしてた。
かかりつけのおじいちゃん先生に電話した。
「わし、飲んどるよ。それでもいい?」
と言ってくれた。
迎えに行った。
その間に兄弟やその子供達に召集かけてた。
どのくらいだったか親族に見守られながら酸素飽和度が0となった。
長かったのか短かったのか…
その間、おじいちゃん先生はそこに居てくれた。
昭ちゃんは本当に静かに眠るように旅立った。
エンジェルケアは私が主にした。
家族には綿を詰めたりさせるのは酷だと思った。
仙骨に小さな床ずれができていた。
病院での看取りは何度も既に経験していた。
看護師6年目の27歳の時だった。
こんなに静かで穏やかな逝き方があるのだと知った。

父は49歳で残胃癌から肝臓転移、脳転移で亡くなった。
私は21歳、弟19歳、妹18歳、母44歳の時だった。
甥の外科医の新ちゃんにしか手術させないと言い張り、無理矢理、転院。
ど貧血で3時間ばかりの道のりの保障はできないと医師に言われたらしい。
やんちゃだった母の弟(長男)が我が儘を聞き『任せとけ!』とばかりに父を乗せて運転してくれたらしい。
出発前の写真が残っている。
父は嬉しそうに笑っているが、恐ろしく顔色がない…
よっちゃんが、ことの恐ろしさを知らない人で父は助かった。
こんな顔色の人間を3時間…休憩したらもっとかかる…普通の人なら道中の死を考えて拒否するレベルだ。
父は無事、新ちゃんのとこに着いて数日後にとりあえず食べれるようにだけ手術してもらった。
転移してなから根治術はできなかったのだ。
この時、私は国家試験前で病室で窓から見える暖色の光に照らされた高速道路を時に眺めながら勉強していたことを思いだす。
既に東京の赤十字病院に内定していたが、悩んでた。
ある日、父が娘は日赤に行くと自慢していると知り、ならばと行くことにした。
就職するとなかなか連休がなくて帰れなかった。
次の年の春に最後の入院をした。
新ちゃんは、通常であるば末期ガンの患者に人工呼吸器はあまり付けないのだが、私の到着までは…と思ったらしくフルコースで粘ってくれたらしい。
父にも新ちゃんにも申し訳ないことをしたと今でも思っている。
不思議なことに父も急変だったようだ。
母に昼を食べて来いと言った直ぐ後くらいに意識がなくなったらしい。
たまたま新ちゃんと食堂で出会ってあまり長くないかもしれないなんて話を聞いてたら、館内放送で新ちゃんは呼び出されたらしい。
で、フルコース。
どうやら、その日の朝、下血していたらしい。
私はその電話を朝、聞いたが長くやすませてもらい職場復帰するよう指示を受けての復帰だったことと下血が何を意味するのかさえ、まだ知らなかった。
昼休みに「朝下血したらしいので、できたら早めに帰りたい」と三角眉の師長さんにお願いした。
ちょうど翌日が休みだったのだ。
師長さんは顔色を変えて、怒鳴るように「下血するってこたがどういうことか、わからないの❓❗」
「なんで、もっと早く言わないの❗」
「今直ぐ、帰りなさい❗」
と、追い返すように返してくれた。
結局、間に合わなかった。
今でも師長さんに感謝している。

で、今年、49歳。
これまで、精一杯生きてきた。
嫌で辛かった看護師も萎えながら頑張った。

私は人工呼吸呼吸器は着けない。
家族にも伝えてある。

だけど、予期しない心筋梗塞とか脳外科系で家族が諦められなかった時は仕方ないとも思っている。