今日というか昨日、お世話になっていた看護部長さんが逝去されたと連絡が入った。
つい、一週間前くらいに最後の別れと覚悟したお見舞いに行かさせてもらったことを思い出す。

ここのところ、報道で透析患者さんの透析中止で患者さんが亡くなったことが大きく取り沙汰されている。

どういった経緯であったかは分からないが、透析患者さんは自分と同じ透析をする人達がどうなって行くかを目の当たりにする。
透析を受けるためには通院する体力もいる。
通院できなくなれば入院透析となる。
入院したら自宅のように自由ではいられない。

看護師同士で40歳も過ぎれば、こんな最期は嫌だとかの話になることも多い。

以前、慢性腎不全のおばあちゃんが透析の話を聞いたときに先生に
『近くに透析をする病院もないし、週に2回も透析に通いたくはない。通うとなれば治療費は要らなくても交通費がかかる。わたしゃ、残りの人生は好きな物を食べて透析じゃなくて近くの先生ができる範囲の治療をしてくれたら充分じゃから透析はせん。』
と腹膜透析の話も出たが拒否だった。
結局、数日で退院されて自宅に帰られた。

病気によっては自己選択ができないこともある。
特に脳血管系の疾患は自己決定は厳しいだろうと思う。

私は可能な限り自然に…点滴や昇圧剤で生かされるような生かされ方をしながの最期は迎えたくないと思っている。

本当に患者自身が透析を拒否したかは不明だが、私の叔父も口から物を摂取することができず一時は点滴をしたが、繋がれている2~3時間が耐えられず拒否して最期は癌であったから痩せてはいたが、亡くなる暫く前から鎮痛剤を使うことも忘れて筆談しつつ、お休みの挨拶をしたかと思ったら眠るように無呼吸が始まりその1時間後くらいだったかに永眠した。

一時期、死ぬ権利という言葉もよく聞いたように思う。

医療の方法もまた、治療に関連したリスクも医療費も含めて詳しい面談ができて、患者や家族自身の自己決定ができるようになっていったらいいのではないかと思う。

と言っても緊急を要する時はその限りではないだろうが…

私は最期は、発見する人には申し訳ないが孤独死後に発見されたい。

で・・・

『つい、この前電話したときには元気そうだったのに… なんかいけんかったんかね?』
『本当に好きに一生懸命生きてたよね。迷惑掛けん程度に資産も残して…』
『ずっと、一人で好きに逝きたい言うてたから、結局は良かったんじゃろね』

と苦笑いとともに見送られたい。

過剰な医療費をかけながら、長患いをしながら生きて生きたくはない。

まあ、いざその時になってみないとわからないが…😥