私が育ってきた昔日に、「愛」ということばが登場したであろうか。

「愛」ということばは日常生活にはないもの、遊んだり、話したりにもなく学校で習った覚えもない。

漫画や小説や映画とくに歌謡曲に多く、フィクションの世界に使われるものと思っていた。

中三のとき、女の子を好きになったときでさえ、恋とは知ってたがそれを「愛」だとは思わなかった。

そのことばかり考え胸のあたりが苦しくなって、人に頼んで好きですと伝えてもらった。結果は空中分解あくまで一方的な思い上がりだった。

「愛」という目に見えないものをこの身に実感することなく、ただ肉体的に成長しただけなのである。「愛」は知識とか想像上のものとかその程度で済ませ、自分と密接なものとは思えなかった。

そんなのが恋をして結婚し家庭をもち子どもまで産むのである。こころの中に大きな空っぽを抱えたまま、頭ばかりデカくし、一丁前の大人になったつもりでいる。

自己中心の顔をし自己中心の服を着自己中心の手で書いたり自己中心の歌をうたい自己中心の足で歩いている。家族を犠牲にしてるとも気付かず。

家庭をもったということ、その長になったということ、父親になったということはどういうことかを心底自覚しなくちゃならないのに。

ぽっかり空いたままの空っぽに、一番大切な、人間の土台を成す内面のエキス、「愛」を充填させなくちゃならなかったのに。それはもう人として罪ですよ。

見えないし売ってないし知識じゃないし自分で作りもできない。世の父親よ、なんとかせねばならない。「愛」をなんとかせねばならない。

自分のためじゃなく、他を思う。自分なんか後まわし、とにかくわが子が最優先、「愛してやる」ことが何よりも重要なんです。仕事なんかにうつつを抜かしていてはダメなんです。

「愛急募!」〰〰イエス・キリストに聞いてみたら。