祖父母は姉を、子どものできなかった叔父夫婦の養子にし家を継がせようとしたが、姉の猛反発にあいあえなく目論見はついえた。今思えばその腹いせからだろうか、さっさと私たち親子四人を家から出し、叔父夫婦を跡取りにした。
親父に経営の力は無かったと思うが、甘やかされて育った叔父もどっこいどっこいだったと思う。
ちょうど私が中学三年、姉が高校二年の頃、町中特有の路地の奥のろくに陽の当たらぬ小さな古い家に放り出され、父も母もさぞかし不満だったに違いない。
言わば祖母は不出来な子を、体が弱く家業のできないことで、前々から離縁させようと思っていた嫁に預けちゃえば、同時に厄介払いができると考えたんだろう。家のお金は出してもらったが、とうざの生活費は少なく不安で仕方なかったと母は言ってた。
頼りにならない父に代わって新しい生活を支えたのは、他には誰もいない、母だった。親と同居で虐げられ神経をすり減らし、体力的に弱かった母だが芯の強い人だった。
少ない父の稼ぎじゃ生活ができぬと工場務めに出た母だが、体が弱いため仕事が限られる。そこを同僚から、楽ばかりしてる、贔屓されてる、不公平だとつつかれ批難される日が続いた。
辞めたら生活ができない。会社からは了解してもらっている(その分賃金は安かった)ので、いくら会社に直談判されようとも負ける訳にはいかないと耐え抜いた。
言い争ったり、反発したり、嫌な顔を見せない母に、悪態をついてた人たちが徐々に近寄ってくるようになり、驚くことにだんだん親しくなり頼りにされるようになった。
そういった人たちが次々にお客さんになってくれたお陰で、母がひっそり始めた寝具販売の取次が大いに盛り上がり、われわれ家族の生活を支えてくれた。
小さかった私にも驚きであったしスゴいなぁと思った。後年祖母は母に、「お前の世話になるべきだった」と自分の非を認めたが、本当の強さとは母みたいな人のことを言うんじゃないかと思った。