今月、5月10日から渋谷アップリンクにて、『いわきノート』という作品が公開される。

僕は、編集としてこの作品に関わらせて頂いた。


正直、この映画の話を頂いた時には、受けるかどうか悩んだ。


それは、東日本大震災以後、自分が被災地に行くかどうかをずっと迷ってきたからだ。


2011年のあの日、僕は東京の自宅で、パチンコ屋のPR映像を編集していた。

震災から一週間は作業が止まり、ただ呆然とテレビを見続けていた気がする。


そんなある日、知り合いの編集マンから電話がかかってきた。

「知り合いのジャーナリストが、これから被災地に行くのだけれど、運転手を探している」

という電話だった。


僕がまず最初に思ったのは、是非、行ってみたいということだった。

僕の想像を超えた状況を、この目できちんと見てみたい、そう思った。


しかし、パチンコ屋の仕事が既に入っていたため、2,3日返事を待ってくれるように頼んだ。


そして、幾日か悩んでいた間に、そのジャーナリストは、他の人たちと被災地に行くことが決まってしまった。

(余談だが、その時の記録は後に『3.11』という作品となり劇場公開された。)


僕は、自分の中に、被災地に行くこと、自分の中にある野次馬根性、そういうものに少なからず違和感を覚えていたのかもしれない。

なぜ、東京の仕事なんて放り出して、被災地にすぐに向かえなかったのだろうか?

という気持ちと、

お前は被災地に行っても何も出来ず、ただうろたえるだけの木偶の坊だろう!

という想いの狭間で揺れていた。


そして、10年前の出来事を思い出していた。


2001年、僕は渋谷の街で映画を作ろうと思い、若者にカメラを向けていた。

渋谷に集まる若者たちに、生きづらさに苦しむ自己を投影し、このやるせなさをどうにか映画に出来ないかと格闘していた。(のちに『ドコニモイケナイ』という作品になった。)


そんな時、9.11が起こった。

多くのジャーナリストがアフガニスタン紛争の現場に出向く中で、僕は自分の小ささを思った。

世界がひっくり返ると思われるような大きな出来事が起こっても、僕の関心は同世代の若者の中にしか見出せなかった。

当時、ある恩師から、「お前らは世界がこれだけ混沌とした問題に直面しているのに、自分にしか興味が無いのか?」と批判された。

僕は心の中で、「僕は自分の足元から世界を見ることでしか作品を立ち上げられない」と反論していた。


あの時と今回の震災で決定的に違うのは、

9.11に関係する政治的な問題を含めたテーマ性は、残念ながら僕にとっては対岸の火事以上の問題ではなかったのかもしれないが、震災に関しては、当事者ではないが、当事者でもあることだ。

震災におけるテーマ性は、否応無く、僕の中にも内在しているテーマである。


しかし、うまくそのテーマを引き寄せられない。反射的に打ち返せる球ではなかった。


僕は中越大震災の後、助監督として新潟県の旧山古志村に3年半通い続けた。(09年に『1000年の山古志』というタイトルで公開。)

あの大きな震災に関しては、少なくとも村びとの近くで、全村避難から帰村までの長い年月を見つめてこれたことに感謝をしているし、一生に一度あるか無いかの経験をさせて頂いたと思っている。


そんな自分が、東日本大震災で現地を取材しなくて良いのか? とも思った。


それでも、僕は動かなかった。


いや、動けなかった。


しばらくして、広告代理店とパチンコ屋と僕の三者で会議が行われた。

PR映像の制作は続投が告げられ、僕はまた、編集の日々へと戻っていった。


そして、その会議では、どのようにしてパチンコ業界を救うか?という議題が話し合われた。

当時の都知事が、パチンコなどは自粛するよう呼びかけ、世論も自粛ムード一色だった。

パチンコ業界と代理店は、今までのCM料を被災地への物資へと変えてはどうかという意見が出されていた。

それは、テレビCMも自粛された当時、物資を運ぶトラックや物資を入れる袋などに、デカデカとパチンコ屋の名前を印刷し、テレビ中継で映れば宣伝になる、というものだった。


僕は正直、それらの意見に辟易し、自分は一体何をやっているのだろう? と自問した。

あれだけ自分の仕事を恥ずかしいと感じたことは今まで無かったと思う。


そんな悶々とした気持ちでいた時、一人の友人と会った。

彼は大手の企業に勤め、安定した職に就き、きちんと稼いでいる人間だ。とても仲は良いが、僕とは正反対の人生を歩んでいる。

そんな彼に僕は、なぜ自分はパチンコの仕事を放り出して被災地へと行かなかったのだろう?と話していた。

すると、彼は静かに答えた。

「それで良いんだよ。このまま計画停電が続き、工場の生産は制限され、消費が控えられることが続いていけば、東京の経済は大変なことになる。原発の問題も長く続くだろう。東京にいる人間は、日本の経済をどうにかしなくちゃ。東北の人たちは今とても苦しい。だからこそ、日本の経済まで落ち込ませちゃいけないんだよ。だから僕は、君がパチンコ屋の仕事をすることを、とても意義のあることだと思うよ」


普段、彼とこういう話になると、ついつい口論になる。

僕は彼のこういう中央集権的思考回路をあまり好ましく思っていないし、彼はきっと僕の思考を、経済を無視した理想主義者だと感じているだろう。


でも、この時の彼の言葉に僕は勇気付けられた。


それから2ヶ月ほど経った2011年の6月、別の仕事で僕は仙台市を訪れた。

その時、仙台での撮影を終えると、カメラマンと二人で海岸沿いなどを回った。まだまだ瓦礫が残り、痛々しい姿は残っているものの、家は総て土台だけになり、いやに殺風景な風景だった。

僕はカメラマンに頼み、その景色を撮影した。


小学校の撮影をしていると、一人の男性が話しかけてきた。僕は怒られるのかな? と思ったが、男性は僕に、色々と話してくれた。

震災後、東京から地元の仙台に戻ってきたこと。

震災直後は、この海岸沿いに多くの遺体があったこと。

そして、その遺体が身につけている時計などを盗む人たちがいたことなど。


けれど、僕はカメラマンを呼ばなかった。

普段だったら、きっと呼んでいただろうけど、なんとなくで始めるのが嫌だった。

震災に向き合う覚悟がちゃんと出来てからじゃないと、カメラを回しちゃいけない気がした。


そこで僕は帰る事にした。


ドキュメンタリーに限らず、映画や小説などの表現において、自分なりの答えを見出さなければ、作品は終われないと僕は思っている。

いや、答えと書くと僕の想いとはずれていく。

何かひとつの答えが欲しいわけじゃない。

でも、何かのテーマで映画を一本作るなら、その映画を作る過程で、自分なりの新しい視点なのか、視座なのか分からないけれど、とにかく作る前と後とでは変化していたいと思う。

それがまだ僕には出来ないと思った。


ドキュメンタリーという表現は、撮影をしながらシナリオを作るようなもので、もともと自分の答えや映画の結末など用意されていない事が多い。そして、そんなものを用意していなくても、現実が突き動かし、翻弄され、裏切られ、作品は良くなっていくことも知っている。

(きっと、小説もシナリオも、劇映画の撮影も、その現場や現実によって、生き生きと変化していった方が面白い作品が生まれるのだろうと思うから、根本的には違いは無いとも思うけれど・・・)


けれど、この状況はあまりにも何も分からなさ過ぎた。

自分が震災に関する映画を本当に作りたいと思っているのかが、何よりも不明瞭だった。


それから2年が経った。


僕は結局、被災地に映画を作りには行かなかった。

東京で自分の映画を公開し、母校で映画作りの手伝いなどもして日銭を稼いでいた。

教え子の中に、福島県の白河市を取材した作品を作り上げた人もいた。

もちろん、様々なアドバイスをしたけれど、僕は取材先に行くことはなかった。


そんな時、『いわきノート』のお話を頂いた。


2年半が経った福島県いわき市を、筑波大学の学生たちが取材をするという。

その手伝いをしてくれないか? というものだった。


僕は、今まで長々と書いたことを考えていた。

2年経って、僕は、被災地の映画は作らないと決めていた。


その理由は、本当にたくさんある。

僕の弱さや意気地の無さ、ドキュメンタリー映画の作り手としての覚悟の無さも影響しているだろう。

でも、それだけではなく、やっぱり僕は震災というテーマを自分の身に本当に引き付けることが出来なかった。被災者を直接的に撮影して、何かを描くことに興味を持つことが出来なかった。


でも、自分なりにこのテーマは考え続けなくてはいけない。

どうしたら、そのテーマを考え続けていくことができるだろうか?

直接的にではなく、もっと換喩として扱えないものか? などと考えていた。


映画を作ることは、そこで描かれる問題に対して、絶えず考え続けていくことだと思う。


2年半という時間、いわき市という土地、学生が撮る作品、そういった要素が、

僕の中にある震災へのテーマ性との架け橋になってくれたのだろう。


本当に震災というテーマに立ち向かうなら、現地を取材しろ!とか、お前は逃げたんだ!という批判もあるかもなとも思う。

でも、きっと僕はこれくらいの距離感であれば、震災について映画を撮ることは出来るかもしれないと思った。


編集として参加することだって、生半可な気持ちで受けていないし、やはり被災地の映画を作るということに覚悟はした。数日ではあるが、現場へも付き添った。そのあたりから、この映画が僕にとってのっぴきならないものになってきたことは確かだ。


自分の想いをいくら理屈で語っても、きっと屁理屈にしかならない。

それでも、学生とともに、震災について考え続けることが出来たこの1年は、やはりとても貴重な体験だった。


当たり前だけれど、考え続けなくてはいけない。

それは、やはり現地で取材をした僕自身の、これからに向けた大きな課題であろう。


ただ、その課題に移行する前に、この作品が劇場で公開することができて、本当に嬉しく思う。


まだまだ僕自身も考えている途中の問題である、その考え中の映画をご覧になって頂き、

観て頂いた方の中にある考えている途中の問題に対して、ちょっとした刺激になれば幸いだ。

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