2020年1月16日、国内で感染者が初めて確認される。

それから世の中の生活様式が大きく変化した。

当たり前だったことが、当たり前では無くなっていった。

外出自粛。
リモートワーク。
濃厚接触者は自宅待機。
密を避けた生活様式。

はじめは窮屈に感じたコロナ対策も、慣れてしまえば何ともない日常の一部となっていった。

人と対面で会える喜びに胸が熱くなる日もあれば、
人と直接関わることが結構ストレスだったことに気づく日もあった。

人との関わりが減り、趣味さえも遠ざかってしまうような日々であったが、コロナ渦の日常は静かな心地よさがあり、そこそこ平和で充実していたと思う。

今回ブログを開始するにあたって
強烈なタイトルをつけるために
お局ワクチンという言葉を使用した。

コロナウイルスは1度感染することによって
免疫を獲得することができると言われていたことから着想を得て、
私もお局とのストレスが多い日常の中で
お局への免疫を直接獲得していき
Withお局 という新しい生活様式に対応していきたいという思いがベースにあった。


とはいえ、まず、しっかり伝えたいことがある。

コロナ禍において自分の見てきた光景は
ほんの一部でしかないけれど、コロナウイルスは私のコミュニティにおいても多くの人のささやかな日常を何の前触れもなく奪い去っていった。

高齢で持病のある家族がコロナ陽性となったとき
医師からは、助からない可能性が非常に高い
と告げられた。

そのときの絶望は今でも忘れられない。

病室で1人孤独にコロナと戦っている家族のことを思うと、可哀想で眠れなかった。

病院からの電話が来ないことを願った。

当時は私の家族と同じように
コロナに感染した高齢の患者さんは
医師から肺が真っ白で
助からないと可能性が高いと宣告されていたようだった。

病院の待合室で泣きながら他の家族へ電話報告をしていた人たちの姿が今でも忘れられない。

多くの人が新型コロナウイルスに感染し苦しい思いをした。
後遺症が残り今も苦しんでいる人たちがいる。
大切な家族や友人との面会が許されないまま
1人で亡くなってしまった人も沢山いる。

コロナウイルスという怪しく危険なウイルスは、何年経っても姿を変え続け、世界中を支配し続けている。

死ぬことがとても身近な世の中になったように感じる。

生きていることが奇跡のように愛おしく思える日もあれば、生きていることが苦行のように感じることもある。

そんなふうに日々心は変化している。

私は現在コロナ後遺症の治療をしながら
社会復帰を果たし労働をしている。

病院に通えばお金がかかる。
薬を飲めばお金がかかる。
生きていれば税金を納める義務が生じる。
結局お金がなければ、生きたくても生きられない。

もう身体も心も疲れたので
人生を終わりにしたいと死ぬ方法を探すこともある。

そんな時なぜかいつも、“人間は自分の意思とは関係なく生まれてきたのだから、死ぬときも自分の意思とは関係なく死ぬ。”という言葉が脳裏をよぎる。

人は皆いつか死ぬ。
長生きだったとか、短命だったとか、
人間の価値観で命の長さをはかることはできたとしても、宇宙のスケールから見れば何歳まで生きたとしても一瞬なのだろう。

そんな貴重な人生の時間に、不幸な時間が当たり前のように存在する。
価値のない人間のように扱われ、1日の多くの時間が悲しみで支配される。

そんな時間の使い方、人生の使い方はもったいない!と思うこともあるけれど、心をコントロールすることが私にはできなかった。

苦しいものはやっぱり苦しい。それはそれ。

他の喜びや幸せといった感情で苦しみ自体を消すことはできない。忘れられる時間がもてたとしても。それは隠されているだけだと思っている。

何度失敗しても、どれだけ傷ついても
心はそれらに慣れることはできず
何度でも傷つくし、何度でも打ちのめされる。

ワクチンがあればウイルスに感染しないか?といえば、決してそうではない様に。

お局ワクチンも同様だと思う。

人が幸せや穏やかな日常を望む限りは、
大切に扱われたいと少しでもねがう限りは
何度お局ワクチンを接種したとしても
お局の攻撃を受けるし、異物として身体や心に入りこみ戦い続ける。

それらは永遠に身体の中を巡っていく。

綺麗なものだけを身体に入れることは決してできないと思う。

だからこそ、なるべく外に排出する力を身につけていかなければならない。

人間関係もきっとそうだと思う。

同じように苦しみを抱える人たちと
ブログを通して出会いたい。
文字にすることでデトックスをしたい。

そんな思いから本日ブログをスタートすることにしました。

長くなりましたが、よろしくお願いいたします。