祭り。

何事も小さなことからコツコツと言うから、祭りのことを説明するにもミクロなインプレッションが必要である。ミクロからのインプレッション。まずはわっしょいわっしょいだ。

なぜ祭りなのか。そこから言う必要がある。

というのは、世界には明日が祭りで夜も眠れないという人が5人くらいは確実にいて(さっきから祭りで寝れない寝れないとうるさいやつが5人もいる。というのは、タンザニア、メキシコ、コンゴ、トルクメニスタン、ジャパンの5人の猛者どもの事なのだが、いずれも俺の祭りの愛を聞いてくれ、お前が聞いてくれないと俺は眠る事も恋人と愛の時間を過ごす事も出来ない、ああ不悪不悪と言って人の話を聞かない)、祭りのことが気になってしまって気苦労。

そこまで言うほど気にしてはいない。だがしかし、ねじり鉢巻をした若人の群れ、神輿に飾られた鳳凰金飾、地域のPRにゆるキャラであるくまのようなマスコットが応援している姿に心が激しく揺さぶられる。

話が大きくなってしまったが、小さなことからコツコツといきたいと思う。まずは、ねじり鉢巻についてだ。

このねじり鉢巻について、博識な方は既にご存知かと思うが、何を捻って鉢巻にしているかというと、祭と中央に大きく書かれた手拭いを使用している。そうではないというねじり鉢巻ももちろんあるだろう。そういう方は本格的な方である。むしろ賞賛したい。私が言うことは何もない為、そのねじり鉢巻で祭りに参加して大いに盛り上げて頂きたく思う。

さて、祭と書かれたねじり鉢巻についてだが、これは捻る際困ったことになりかねない。なぜなら、せっかく大きく書かれた祭の文字を捻っていくことによって見せることが出来なくなるからである。これは重要な問題だ。しっかりと捻ることで、祭という文字はただの赤い線になりかねない。黒い線だったかもしれない。ここのところはねじり鉢巻に素人な私は詳しくない。Googleなどで検索していただければ祭と書かれた手拭いが少しでも多く発展するだろう。10人検索してくれればその発展に貢献できる。祭という文字のフォントがより強化されるかもしれない。現代において望ましい事ではないだろうか。

そんなことはどうでもいい。捻る際に消えてしまう祭の文字の方が重要だ。

しかし、世の中は広い。ねじり鉢巻ではない鉢巻の巻き方を考案し、祭の文字が大きく額に輝くような巻き方が存在する。私がその方の額に祭を見たときに肝を冷やしたのは言うまでもない。文化は人の手によって進むのだ。私は時代が遅れていたようだ。

だからどうしたというのだ。私は間違っていた。ねじり鉢巻は捻らなければねじり鉢巻ではない。捻ることで祭の文字が見えなくなろうと、その精神は捻り込まれ、精神を纏った鉢巻となり、その集合体が祭りになる。文字など関係ないじゃないか。祭りには精神性のある何かが必要だ。時代に乗り遅れることを恐れ、信念を忘れ、すぐさま有り体の良い方に流されていく、そんな自然体に身を任せるような生き方、そうやって自分に嘘をつかないで、自分を信じて、ドントマインド、オールライト、スタンドバイミー、キャッシュディスペンサー、これが悪いというのか。ねじり鉢巻が間違っているんじゃないか。

私は正当化がしたいわけじゃない、ましてや批判のような態度が取りたいわけでもない。だから、誰も何も悪くない。そういうときは大体自分が悪い。ねじり鉢巻の捻る回数が悪かった。あるいは元々こういうことを言うということそのものに対する疑念を持っているかどうか。

「あなたはなぜそれを言うの?」
「それはなぜ?」
「それはなぜ?」

それはなぜそれはなぜ、を捻る捻る捻る、行き着くところにあるのはなにか、

君のため?
「NO」
自分のため?
「NO」
世界のため?
「NO」
ではなぜ?
「脳みそが痒かった」


祭り。
世界の友人が眠れないほど熱く捻った鉢巻にグッナイ
こっこっこっこっこっこっ
こんこんこん
がちゃ
きい
こっこっ
かちゃん

こっ
こっ
こっ
こっ
こっ

ちゃきゅう
きゅっきゅっ
きゅっしゃああああああ
ででででででででできゅっ
ちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱ
だばだばだば
こおおおおおお
だばだばだば
がらがらがらがら
ぷええっ
ちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱ
ぱっぱっ
ででででででででで
きゅっきゅっ
きゅっだばだばだば
だだだだだだ
ぴちゃ
こっこっ
さわ
ぱんぱんがさがさがさ

こっ、こっ、こっ、こっ
ちゃん
こっこっこっ
ばふ

こん
かちゃかちゃしゅぽんっ
とっとっとっとっ
しゅわわわわ
ごくっごくっごきゅ
ふうう
ごと


行動の前からある意味

選択
選択された物

がちゃ、かちゃんと鳴る扉
扉があるということ
扉がある全体
建物
建物の中に入る

開ける
扉を開けるということ
扉を開けること
扉を閉めるということ
扉を閉めること

歩く
歩くということ
歩き方
歩くと音がする何か
歩くと音がする身につけた何か

扉の開け閉めの後にあること

蛇口
蛇口を使うということ
蛇口の使い方
蛇口の場所

蛇口から出てくる水
蛇口から出てくる水を使うということ
蛇口からの水の出し方
蛇口から出てくる水の使い方

うがい
うがいをするということ

水がついた手への対処

タオル
タオルの使い方
タオルがある場所

椅子
ばふと音がする椅子
ばふと音がする椅子を使うこと

ビール
ビールを飲む
ビールを飲むということ
ビールを飲むために必要なこと
ビールの場所

グラス
グラスを使うということ
グラスの使い方
グラスの場所

栓抜き
栓抜きを使うということ
栓抜きの使い方
栓抜きの場所

ビールから泡が出るということ
a+b=cのような単純計算式のようにはいかないだろうが、いや、これというのは単純計算式となる、この数式a+b=cが元になるに違いないのだが、x≦a≦yの値をとるようなものだったり、b⊆aだったりするかもしれず、いくら場合わけの考察を行ったとしても、その単純計算式は成長するため、あ、その単純計算式は成長するのである、ということを踏まえると、成長曲線(成長とは変化のことである。ベクトル量の変化であり、正の方向、負の方向にその差はない)を表したグラフpが単純計算式に含まれる。

また、これを仮定した際、結果として求められるであろうcが、主観で判断される、或いは出来るような値(例えば、芸術点というのは、どのようにして採点しているのだろうか、というような言うなれば価値観など)を持つならば、結果はa+b=cであるという以外に正確な値を取れない。

つまり、cは、能動的でり受動的であり、もしくは、主観的であり客観的である。そして、これ以上の計算が必要だとしても、数値化出来ないならば、単純計算式以上の数式にする必要はない。

なぜ、かくも重要な事柄を隠し、考えつく限り、その単純計算式において無駄な、そして、余計な事柄を含めた生活、社会、表現が存在するのか。それはa+b=cの計算式が表す通り、c=cであることは、疑いようのない事実となるため、cの値が決まるように錯覚するところにある。錯覚ではない。勘違い、思い上がり、知ったかぶり。当たり前にすぎる。

当たり前に気がつけるならば、全ての事柄はc=cでいい。相対性理論は相対性理論だからだ。宇宙の誕生は宇宙の誕生だからだ。にんじんはにんじんだからだ。お前はお前だからだ。それでは何も分からないかもしれない。しかし、cの取り得る値を、能動的に受動的に主観的に客観的に成長曲線上で決める事が出来るならば、全てはc=cとなる。

また、ここに助詞、助動詞を含む単語が、全て代入可能であることが、c=cによって決まり、同時に、どんな代入であっても、c=cである以外の意味はない。

a+b=cが示すのは、aという存在とbという存在を足すとcという存在になることである。あるが、cにはaとbという存在が含まれるというのが、結果の捉え方として妥当ではないかと考えるべきか。なぜなら、前提はc=cであるため、aとbは、この単純計算式上でただ存在しているだけであるからで、そこに、それこそグラフ上の点であるような結果を知る事と、その点であるという結果を捉えた上でcという存在を捉え直すというのでは、その主観性に違いがある。勘違い、思い上がり、知ったかぶり、当たり前にすぎるcを捉え直すためのaとbである。

そもそも、cはcなのだ。そして、これを考えるべきどうかというのを考えるのは、そもそもアホすぎる。そして、これを主観的にアホすぎると考えるならば、客観的にはアホなのである。というのは、cには意味はないが、存在として捉えるcとして、存在数と存在数との場合の数の分だけ存在し、そして、それは成長曲線上にあるからである。

だからといって、アホのままではただのアホ(例えば、グラフ上の一点、結果、それのみ)なので、なるべく、捉えようとするc、それに対する自己は、成長曲線上にあるはずである。アホすぎる自分をcを捉え直そうとすることで、よりアホに磨きをかけたい。

感覚的に、自分でそれを用いる際のシュールレアリズムや、ダダイズムは、発生の起源など知らないが、その生活の場面における存在の可能性を広げるために場面を捉え直して、その捉え直しにおいて自ら発する事の出来る一つの方法になるはずである。特に、ここ五年くらいのコーチングにおける実験的作用は、白い目で見られる、や、絡みづらいと言われるなど、そこにcを捉えるための(a+b=c)⊇(a+b≠c)の主観性が垣間見られたように思う。

知りたいも、知りたくないも、知っているから選ぶ事が出来る。ということは、それを知らなければ何も選べないのか。とか思うが、知ろうとする事を選ぶ事を知れば、知ろうとする事も知ろうとしない事も選べる、ただそれだけか。

とか考えていたら、今日やらなければならないことに間に合わなくなりそう。命が有限だから、何をするのか、優先順位を考えなければならないのか、何かをやるならば。存在の永遠性と命の有限は、どうも割に合わない、けれど、ちょうどうでもいい。ただ、覚悟が、こういうところに、やっぱ、あんのかとか思う。で?なんなの、って感じい。「ぺ」と「ろ」を合わせて連続すると、どんな効果があるのか試してみようっと。きっと晴れやかな気持ち。

ぴゅん