ごきげんよう!
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私の祖母は、北海道茅部郡森町の出身。
とても、元気な人でした。当時は、子沢山で奉公に出され網走で祖父と職場結婚をしたと聞いています。
父が25歳の時、祖父は急死し、父が大黒柱となりました。その時、まだ、誰も独立しておらず、7人の兄弟もみんなが家にいた時代だったと聞いています。みんなで助け合って生きていたのでしょう。だからか、父の兄弟はずっと仲が良く、いとこ同士も未だに仲良くさせてもらっています。
家業が生活の中心にある中で、祖母はご飯作りに関わる全てと、みんなが使う場所のお掃除などが役割だったと思います。
母は、ずっと家業の仕事をしていましたから、私は祖母と過ごす時間が1番多く、その影響を今更ながら感じています。
私が祖母を思い出す時、1番好きなシーンがあります。それは家事の合間に、自分の部屋で繕い物をしている姿です。そんな時間の中で、不器用な私に編み物を教えてくれたのです。ほんとに基本だけ。小学校高学年の頃のこと。
「お前はほんとに不器用だねぇ」
笑いながら言った祖母を思い出します。
毎日毎日、ご飯を作り、お掃除をし、繕い物をする祖母の姿。
少し大きくなった頃、祖母の楽しみって何だろうと考えることがありました。
それは、数年に一度、私を連れて、娘達の家を訪ねる旅。小学校へ、入る前です。
非日常ですよね。
私が学校にあがってから後は、何かしらの旅行に時々出かけていました。とても、楽しかったんだなぁとお土産話を楽しみに聞いていました。
そして、ご飯を作り、お掃除をし、繕い物をする日々は変わらず続いて…
私が高校3年生の夏休み前、日光東照宮へ行って帰ってきた祖母は、自分の体調に違和感を感じて、裏にあった医院へ受診し、家族が呼ばれることになるのです。
すぐに大きな病院に入院し、治療というよりは、もう、緩和ケアに近いものだったと思います。
私は学校が終わるとまず病院へ。
祖母の顔を見て、話をして、洗濯物などを持ち帰って…そんな日が3ヶ月ほど続き、やがて終わりました。
祖母の葬儀を終えて、変わらない日常の生活。祖母のしていたことがその時期、私の役割になっていました。
また、そこで考えるわけですよ。
毎日毎日、ご飯を作り、掃除をして……
高校生の私には、どうして毎日毎日、粛々と家事をこなせるのか、わかりませんでした。祖母は、楽しく生きていたのだろうか?と…
その答えがまさかの今、私の前に…
求めよ!さらば与えられん…
か、どうかは別にして、祖母の想いが今頃判るようになりました。
そうすると…もう…
あらゆることに対しての感謝だったんだなぁと…
判る時がきた。
判る時がきて、良かった、ありがとうございます。
おばあちゃん、あなたの孫になれたご縁を、私は今ごろ感謝しています。
遅いっ
って声が聞こえるな
列車の中にて、つれづれ