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ドイツのブログ

私が、博士号を取り、子供と同居し、芸能人になるまでを描きます。

私は、毎夜毎晩
 
三脚台の上の水晶の上に映る、諸世紀(各世紀に起こる予言)を書くノストラダムスのように自宅のアパートの鏡の自分の顔を見て、鼻で腹式呼吸し、背を伸ばし続けて、身体論の功利主義という自分の哲学を確認した。
 
 
 
私は、あらゆる学問をやりつくしたファウストが、悪魔メフトフェレスにそそのかされながら、最後は、昇天するというファウストのように、ありとあらゆる学問を追及し、博士号まで取れると言われた私の学問が、高度な知的判断の果て、全ては、姿勢と呼吸法だ、という身体論(または、功利主義)をもって、ファウストのように昇天はしないが、落ち着いた。 
 
 
 
 
 
全てを極め尽くす私の激動の人生は、身体論の功利主義をもって、府に落ちた。 
 
 
 
 
分かりやすくー
 
 
例えば、金で買えないものは、健康か?愛か?
 
 
 
金で買えないものは、
 
 
 
 
 
スタイルだ。 
 
 
スタイルが、金で買えるだろうか?健康や愛は、健康食品、健康器具、また、愛は妻との関係だけにしとくことは前提に、例えば未婚でも、金があれば、商売女の愛が買える。
 
 
 
健康も、愛もある程度金で買える。
 
 
 
 
しかし、スタイルは金で買えないし、変な話、金がなければ、金は金で買えないというか、金じたいがないと、どうしようもない。
 
 
 
スタイルは、金で買えない。
 
 
 
身体論の功利主義に戻ろう。
 
身体論とは、理想は背筋が伸び、鼻での腹式呼吸で、首肩などに凝りがない状態だが、まあ、よを見回して、不幸の原因にあまりにも、身体的不愉快が多いことか。 
 
 
 
若いうちは、体は強いが、経験値の増加と共に体は、弱っていく。
 
 
 
しかし、何でも体力だと思う。仕事に体力。家事に体力。しかも、体力のある人は健康だ。
 
 
 
私も、余りの私の人生の激動は、目をおおうほどだが、体力がついて、嫁に子に仕事に忙しい日々も、体力があれば、そんに思わない。
 
 
 
次に功利主義だが、
例えば、イスラム教のコーランを上げようとキリストを拝もうと、私の信じるものは、功利主義でそんなの関係ない。
 
 
 
別な言い方をすれば、自分のしっかりした哲学があれば、もっと言うなら、自分の哲学が最高の考えだと信じるなら、キリストを拝もうとイスラム教のコーランを上げようと関係ない。
 
 
 
 
それは、私は誰がどう言おうと、功利主義だからだ。或いは身体論だからだ。 
 
 
 
 
どう考えても、功利主義だ。気分のいいときは、いい考えになり、悪い時は、悪い考えになる。 
 
 
 
 
気分がいいには、どうすればいいだろうか?
 
 
 
それは、身体的不愉快を少なくするために筋肉をつけ、背筋を伸ばし、腹式呼吸することだ。
 
 
 
 
 
逆に、功利主義から身体論を説明すれば、体を強くするのに鍛えてて、あんまりえらいなら、煙草を吸うなり、熱くなって汗が出るなら、水を飲み涼み、楽することだ。
 
 
楽とは、功利主義の快に近く、えらいとは、功利主義の不快に近い。
 
 
 
 
 
 
 
 
私は、哲学の原点に苦楽ありとり
 
 
 
 
苦楽ありとり
 
 
 
 
とした。
 
 
苦とは、功利主義の不快で、楽とは、功利主義の快だ。
 
 
 
 
ありとりとは、数学で共通項をまとめるように、同じあるところを一つにまとめるということだが、それはあらゆる学問をしょうようし、勉強することだった。
 
 
 
 
 
もとにあった私の哲学は、苦楽ありとり(功利主義と学問の勉強)だったが、それらは功利主義と身体論に行き着いた。
 
 
 
 
苦楽ありとりから、不快快という功利主義におちつき、激動の人生は、何でも体力だ、体力さえあれば。という考えになった。
 
 
 
 
ノストラダムスとファウストは、何をしているのか?結局人間は、死ぬ。
 
 
しかし、宗教を信じきれぬ哲学をもった私は、激動の人生に体力と、
 
 
 
 
 
もう一つは、満里奈の成長がうれしいという美点をもった。