・Scripture: Acts 7: 54~60
・説教題: 「耳をふさぎ、石を投げつける人々」
・Sermon: "Those who cover their eras and sre stoning."
3月の聖書の言葉
「光の子として歩みなさい。」
エフェソの信徒への手紙5章8節
「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章6節~10節)
いよいよ年度末、卒園式や進級パーティーを迎えようとしています。2012年度の最後を締めくくる聖書のことばは、信愛学園の聖句(教育方針)です。これは最初に周船寺幼稚園が周船寺教会の付帯事業として設立された時から、キリスト教教育を行う周船寺幼稚園(そしてやがて設立される周船寺第二幼稚園)の教育方針であり続けています。
エフェソの信徒への手紙を通して「光の子として歩みなさい」と私たちに告げる手紙の著者パウロは、まず私たちに神さまの愛を示され、その愛の結果、自分を犠牲にして十字架に架けられたイエス・キリストが私たちを照らす希望の光であると示してくれています。その上で幼稚園や教会との出会いから聖書の言葉を通してその十字架のイエス・キリストに出会った私たちもまた光であるイエス・キリストに照らされ、キリストに結ばれた「光の子」であると教えているのです。
私たちは心のどこかに人に見せられない(見せてはいけない)「醜さ」や「闇」を抱えて生きていると思います。どんなに聖人のように見える人であっても所詮は人間です。この文書を書いているわたしもそうです。心の中が完全に清らかで、いつもきれいなことしか考えていないということはあり得ません。程度や質の差はあっても、どこかで自分の「影の部分」―「闇」を抱えていると思います。その闇は放っておけば、ときに私たちの進むべき方向を見失わせ、私たちを「悪」へと導いてしまいます。イエス・キリストはそんな私たちが「悪」へと進まないために、いつも私たちを照らしてくださっているのです。イエス・キリストの光に照らされていることを信じるならば、私たちにとって「闇」はもはや「闇(罪・絶望)」ではなくなり、私たちには愛と希望だけが残ります。
2013年1月に80歳で天に召された牧師がおられるのですが、その方は日本基督教団の多くの教会で今日使用されている『讃美歌21』の賛美歌の翻訳に携われた牧師の一人でした。讃美歌21はどの牧師がどの賛美歌を翻訳したのかについては一切記していませんが、先日不思議な縁で、その牧師が讃美歌21の賛美歌509番「光の子になるため」(歌詞は以下)を翻訳されたことを知ることができました。
1. 光の子になるため 従いて行きます。この世を照らすため 来られた主イェスに。
(くりかえし): 主のうちに闇はなく 夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください。
2. 主の輝き見るため 進み行きます、示された小路を み神のみもとに。(くりかえし)
3. 主の再び来る日を 待ち望みます。 信仰を守りぬき、み前に立つ日を。(くりかえし)
この509番はその牧師の素朴で簡潔な信仰が歌詞に象徴されているように感じています。しかしこの信仰は素朴ではあるけれども、私たち人間がなかなかそうあることのできない姿勢でもあります。だからこそ私たちは自分の力に頼るのではなく、イエスさまに「心の中をわが主よ、照らしてください」と祈るのだと思います。イエス・キリストの光に照らされて「光の子として歩めますように」といつも祈ることのできる私たちでありたいと願います。