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今回は、「学校に行く意味」を考えてみようと思う。 ここでの学校は主に、小学校、中学校、普通科高校とする。

まず「学校は、勉強を教えるところ」と、目的としてそうある。 それ自体が学校の本義であるから、それはそうだ ろう。 だが、内実はどうであろうか。
実際、十分に学校 が生徒に学問を与えていることは無いだろう。 事実、勉強や学問というものは、本人自身が向き 合い育むものであり、学ぶ意志が無い本人(それも どうかと思うが)に強制的に叩き込むのは無駄であ り、いわば「猫に小判」である。 ですから、学問に関しては、自ら行動をおこし学 んでいくべきである。学校でのみの学問など、矮小である。

ここで「勉強しないなら学校行く意味が無いではないか。」という意見が発生するが、それは違う 。 学校は、本来学問を啓蒙する場(私の考えでは、学 問探求としては学校という場は不調法となります が、一般概念として)であると共に、「社会に出る ため」の思惟、協調性、集団行動を育む場である 。それは、教師だけでは無く、共同体のように、 同世代のクラスメートや学友、そして先輩後輩の 関係から育まれる。 しかしここに、子供の個人としての自律性能力の 発達を考慮していない点に注目していただきたい 。 学校教師が必ずしも倫理観や道徳に横溢でいて、 人間性が豊饒であるとは限らないからである。近頃の一部の教師の悪事や常軌を逸する行動により 、それが外化している事はお分かりだろう。 処世術や社会的実践力、それは個々人で学ぶべきである。

では教師の存在意味を考えてみよう。 教師の役割は ①学問を啓蒙する、②協調性や集団 行動を生徒に学ばせる、③学校の秩序を乱さない ようにする、等が考えられる。
①について、これは先述の通り、十分に果たせる ものでは無い。
②について、これは大きな意味を持つ。 なぜなら 、集団には統帥者、いわばリーダーが必要不可欠 だからである。敷衍しますと、生徒だけの環境であれば、集団は秩序を保守する能力を失ってしまい、頗る軋轢、終いには集団自体が破滅に向かう のである。これは社会でも頗る大問題である。だから事の趨勢に教師が辛辣なのも、仕方ないので ある。特に小学生等は、まだ分別が無い場合が多いので、統帥者は必要である。
③について、これは「学校のため」というイメー ジが強く、生徒の個性や創造性の発達に関わる、 と危険視されやすいが、理由は、②とほぼ同じで ある。集団の為ならば、多少の個人の犠牲はやむ を得ない、というのが見解である。しかし集団は 個人に利益を還元しなければいけない。良いもの でなければならない。その為の架け橋として、そ こに教師の存在意義があるのではないかと感じる 。

学校へ行く意味を考える際、絶対に「勉強を教わる為」というのを一義的に認識してはならない。 むしろ二義的である。 そこは、集団行動における関係や思慮を身に付ける所であり、学問探求は二の次なのである。大事 なのは社会的実践力、処世術…それを学ぶ「機会」 を学校は与えてくれているし、与えるべきだ。 これが学校へ行く意味なのではないか!(笑)

拙い文でごめんなさい(笑)