3月一杯まで毎週入っていたマイケルの予約は全て取り消され、私はストレスを感じることなく勤務を続けていました。ところが今週、何の前触れもなくマネジャーから以下のメールが来たのです。
「やあかりんこ、例の患者のことなんだけど、どうも君のことを相当気に入っているらしくて、君の施術が一番効果的だと訴えているんだよね。それで相談なんだけれど、彼のクレジットカード番号をこちらで保存させてもらうよう、彼に交渉するというのはどうかな?そうすれば、彼にももうちょっと予約時間にちゃんと来るように促せると思うんだけど、どうだろう。考えてみてくれないか」
…ちょっと何言ってるかわからないですね…
いや、もう、私への予約は受けないようにさせると言ったし、既にキャンセルされたわけですけど…。ていうか、キャンセルした時点でマイケルとクリニックとの間では、どういうコミュニケーションがなされていたのでしょう。私はその点を追求しなかったことを後悔しました。あまりに遅刻とノーショウが多いから、もうセラピストはあなたの施術を拒否している、と受付なりマネジャーなりから、ちゃんと伝えてなかったのか?いや、伝えた上でこの男は、粘ってきたということなのか?わからない。わからないけどただひとつ言えることは
知らんがな
ということに尽きます。頭蓋骨の中にメロンパンでも入ってるのか、あのマイケルという男は。そんなに私の施術が受けたいなら、なんでいつも時間通りに来ない上に、前回は連絡もなくノーショウだったのか。毎回毎回一切の誠意も見せずに、私の施術が効くから受け続けさせろだと?ふざけるのも大概にしろ。私は怒りに任せて
「嫌です。もうあの患者とは関わりたくありません」
と速攻で返信しそうになりましたが、いやいや待て待て…感情をむき出しにして返信するのは、大人としてダメだ。ここは、プロフェッショナルに行こうじゃないか、プロフェッショナルに…と、己に残った理性が羽交い絞めにしてそれを止めました。
しかし、どう言ったものか。そもそも、マネジャーのメールに対して、私は怒り以上に何か釈然としないものも感じましたが、それを言語化できていない自分がいました。こういう時は…そう、あの人に相談だ!私の無慈悲なビジネス顧問である、カナダ人の夫に!
これまでも顧客の扱いで困ったことがあると夫に相談してきましたが、彼はその度にズバッと無慈悲な正論を言って、私のヘタレな精神に喝を入れてきた実績があります。私は仕事中の夫に、簡単に経緯を説明するメールを送りました。すると彼は
「君がその患者を切りたいのは、彼の遅刻とノーショウだけが理由なのか?」
と尋ねてきました。私がそうだと答えると、夫は「わかった、帰ってから話をしよう」と言いました。以下、顧問の意見です。
「君が最も主張すべきことは、その患者が時間通りに現れるか否かに関わらず、君には予約された時間分の報酬を確実に受け取る権利があるということだろう。君は契約に従い、時間通りに現れ、施術ができるよう万端整えてそこにいるわけだな。にも拘わらず、その患者が現れず、支払いがなされなかったという理由で、君の報酬が失われることは理屈に合わない。
予約時間に来なかった患者に、キャンセル料を請求する役割を担うのはマネジメント側であって、それは君の仕事ではないな。患者が来ようと来るまいと、キャンセルの連絡が事前になかったのなら、君はその時間分の報酬をクリニックに請求していいんだ。だから返信にはこう書けばいい。『当該患者の来る来ないに関わらず、私が予約された時間分の報酬を得られるとクリニックが確約し、それを書面にするならば、施術を継続しても差し支えない』とね。だって、君がこの患者を切りたい理由は遅刻とノーショウ以外はないんだろ?なら問答無用で拒否ではなく、こういう交渉の余地がある。僕が最初に君に理由を聞いたのはそのためだ」
さすが顧問…。そう、私の意識はマイケルの全体的な不遜な態度に向きがちでしたが、問題の本質はそこではありませんでした。私が真に不当性を訴えるべき相手はマイケルではなく、私に正当な報酬を支払う努力を怠っているクリニックなのです。確かに、一切の誠意を見せないマイケルの態度は不愉快ですが、セクハラや暴力等の一発アウトの狼藉までには至っていません。
キャンセル料を請求するのはクリニックの役割、というところで私の違和感の正体がはっきりしました。マネジャーは、マイケルのクレジットカード情報云々という話をしてきましたが、それはクリニックが考えるべきことであって、私の知ったこっちゃないわけです。私は時間通りに仕事をして報酬が支払われればそれで良く、マイケルがきちんと来れるようにモチベーションを上げる義務もないし、そもそもそんな躾は彼が幼稚園に上がるまでに彼の親がやっておくべきことです。
夫がマイケルの態度云々や私の抱いた負の感情には一切言及しないで、この問題を論じたことには目から鱗が落ちた思いがしました。わかっていたことですけれども、確かに、人間性というものは、他人が短期間でどうこうできるものではないのです。マイケルは今後も時間通りに行動することもなければ、自分の行動によって他人がどういう感情を抱くかに思いを馳せることもなく、そういう感じの人生を送るでしょう。それは彼の問題であって、私の問題ではありません。私がすべきことは、
正当な権利の行使だ!!
と言うわけで、顧問のすすめに従い、私は以下のようにマネジャーに返信しました。
「メッセージありがとうございます。以下の条件なら、私は当該患者の治療を継続したいと思います。
1.当該患者がノーショウであった〇月〇日と〇月〇日の分の報酬を私が受け取ること
2.当該患者の来院の如何に関わらず、予約された時間分の報酬を私が受け取れるという証明をクリニックが書面にし、それを私が受け取ること
この条件でのみ、私は当該患者のケアを継続しましょう。もしこの条件に合意できないということであれば、私はRMTとしての権利を行使し、当該患者の治療は拒否させていただきます。」
この条件にマネジャーが合意しようとしまいと、どちらにしても私のメリットにつながります。合意されれば私は報酬を確実に受け取れるし、合意されなければ私はもうマイケルの顔を見なくて済むわけです。私の不利益は、不愉快な人間と一定期間関り続けるストレスか、失われた報酬分の経済的損失のどちらかに留まります。まあ、ぶっちゃけ払われなかった報酬は合意の如何に関わらず私が受け取るべきですが、今回は譲歩します。それよりも、私のこの硬質な態度によって、マネジャーが何か感じてくれることの方が重要です。
それにしても、夫はやはりカナダ人であり、北米の文化で育った人間なのだなと、その言葉の強さからしみじみと感じました。10年以上をカナダで過ごしてきていても、私の本質的な部分はいまだに日本人であり、己の立場を強く押し出すという行動に慣れていません。しかし、不当な扱いを受けて悶々としながら過ごしていても、己が行動しない限りは誰も助けてはくれないというのは、どこの国で生きていても同じことではあります。
マネジャーからの返事はまだ来ていません。